無電柱化と駒ヶ根市

先日、山梨県内を走行中、「心地よい空間」に入りました。何かが違う…その通りには電柱・電線が無いことに気付きました。しかしその時に強く思ったのは、観光立国を掲げる長野県こそ「無電柱化の先進県」であってほしいという願いです。

もちろん長野市では、善光寺参道や市街地の多くで電柱・電線はありませんし、松本市でも駅周辺や松本城周辺は無電柱化されています。2つの地方都市は、日本を代表する門前町と城下町のため、市街地の再開発スピードも速く、連動して無電柱化を行えた背景があります。

一方で、他の県内市町村ともなれば、とてもそんな訳には行きません。
しかし、印象的なのは「しなの鉄道」沿線の街は、無電柱化された駅前通りが多いという事実です。きっとその背景には、長野北陸新幹線の開通と引き換えに信越本線をJRが手放すことによる街の衰退に危機感を抱いた市民と行政があったのでしょう。官民が一体となった「強い意志」による無電柱化事業が行われたのではないかと推測します。=長野市の篠井駅前通り=千曲市の矢代駅前通り=上田市の駅前通り=小諸市の駅前通り=は、無電柱化された清々しい景観を見せています。

白馬村駅周辺では、2年がかりの無電柱化工事が現在進められています。世界に誇るスノーエリアにとっては大変有意義であり、これが長野県内全域へと波及すれば、ヨーロッパの山岳風景にも負けないNAGANO,JAPANに生まれ変わることでしょう。

さて、駒ヶ根市はどうなのでしょうか?
実は「駒ヶ根ファームの前面」と「JR駒ヶ根駅の前面」の極々狭い場所での無電柱化にとどまっているのが現状です。ほぼ進んでいない残念な気持ちと、同時に財政が乏しい駒ヶ根市では仕方ないか…とのあきらめ気分が交錯します。
大きな自治体では、「無電柱化推進計画」なる特化した事業計画が存在しますが、駒ヶ根市には未だ存在しないようで、どうにか見つけた資料を要約すると「市街地の再開発を進める時には、無電柱化も同時に行いましょう」といった副産物的な内容で記載されるに留められています。

東南海沖地震が発生した際は、多くの電柱が倒れ、絡まった電線が避難者や救助の行く手を阻むでしょうから、無電柱化には「防災」の側面もあります。
電柱・電線の無い、澄み渡った景色の、そんな駒ヶ根の未来が早く訪れることを期待してやみません。

(多くの場合、この様に電柱と電線が映り込んでしまうのです…)

西駒登山(にしこまとざん)

7月になると駒ヶ根市を含む上伊那郡の中学2年生は、「西駒登山」と称して中央アルプスへの山岳登山を行います。「西駒」とは我々が暮らす西側にそびえる駒ヶ岳という意味の略称です。梅雨が明けた夏山を狙って、一斉に上伊那郡下10校の中学生たちが1泊2日で3,000m級の木曽駒ヶ岳~宝剣岳山頂を目指すのです。
これは昔からの地域の伝統行事であり、考えてみれば実に長野県らしい行事です。諏訪地方の中学生も「八ヶ岳登山」を行うと聞いたことがありますが、全県的な行事かどうかは知りません。
くれぐれも繰り返しますが、トレッキングや軽登山ではありません。アルプスへの本格登山です。

ですから登山本番の数か月前にはリュックサックを購入し、砂袋を詰めて重くした中へ教科書なども入れて登下校することから準備は始まります。
更に登山のひと月前には「予備登山」を行い、標高1,500m程度の里山を一日がかりで練習として登山する行事が先にあるのです。
そうして迎える本番は、健脚な若い教職員数名と保健体育の教職員、父兄代表数名そして山岳ガイドを付けたパーティーを形成します。早朝4時半には学校に集合し、明けきらない暗い中を数台の伊那バスで登山口まで送ってもらったことを記憶しています。

映画ファンならご存じの方もいらっしゃると思いますが、鶴田浩二・三浦友和主演による「聖職の碑(せいしょくのいしぶみ・原作小説/新田次郎)」という映画がありました。実はこの映画は、我々の「西駒登山」で起こった、実際の山岳遭難事故を題材にしています。悲惨な山岳事故でしたが、それでも上伊那郡の中学校は「西駒登山」を中止にせず、続ける選択をしました。

自分たちの山を、大人になる試練として登っておく。そういう事なのだと思います。上伊那版スタンド・バイ・ミーといった感じかもしれません。
中学2年生程度の体力では、まだまだ3,000m級を登るのはとても苦しいことです。未知の行く手には容赦なくガスが辺りを阻み、激しい雨が中学生たちを叩きます。それでも、いつもは意地悪な彼が手を差し述べて同級生を引っ張り上げ、山小屋では質素なカレーライスを皆でほおばり、21時には互いが抱き合うようにして狭い空間で眠りに落ちます。翌朝、山頂で迎える御来光に照らされた時、オレンジ光の眩しさを皆が黙って見つめていたのはなぜでしょう?
親や先生、県や教育委員会は、こうした体験をさせる道を敢えて選んだのです。

中央アルプス・宝剣岳山頂付近尾根     画像/CLUBMANx様より

伊那七福神めぐり

梅雨の駒ヶ根です。
雨の季節にこそ巡ってみたい“小さな旅”のご案内です。
皆様、「伊那七福神」をご存じでしょうか?地元の方なら名称こそ知れ、実際に巡ったという方はあまり多くはないと思います。
傘を打つ雨音を聞きながら、濡れそぼつお寺の参道を歩くのも悪くはありません。

室町時代から信仰を集めるようになったそうですが、七福神メンバーも時代によって変遷してきたようで、現在の固定メンバーに落ち着いたのは江戸時代のようです。「七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かる」と言われるありがたいご利益があり、日本で独自に培われた信仰のようです。

下記に「伊那七福神」のお寺・札所を記載しますので、Googleマップでお調べいただきご訪問ください。たとえ地元の方であっても、数日に分けて参拝されると良いでしょう。と言うのも、田舎のお寺というのは都会のお寺とは違い、不在がちだったり、ご住職が別のお寺へ葬儀の手伝いに出かけてしまう事も多々あります。
「期待していたのに御朱印をもらえなかった」とか、お守りやお土産品等が無くてガッカリされることのありませんように。グッズを買えるのは「光前寺」様くらいです。「伊那七福神」巡りは、そういった観光目的の七福神巡りとは事情が異なりますのでどうぞご了承ください。
また、巡り順などの決まりは無いようですのでご安心ください。

【札所一覧】
1.「恵比寿天」西岸寺/長野県上伊那郡飯島町本郷1724
2.「大黒天」常泉寺/長野県上伊那郡中川村大草5151
3.「毘沙門天」蓮華寺/長野県伊那市高遠町長藤105
   ☆江戸時代の大奥スキャンダル絵島生島事件
4.「弁財天」光前寺/長野県駒ヶ根市赤穂29
   ☆霊犬早太郎伝説で有名
5.「福禄寿」聖徳寺/長野県上伊那郡飯島町田切2875
6.「寿老人」蔵沢寺/長野県駒ヶ根市中沢中割4815
   ☆別名キリシタン寺
7.「布袋尊」常円寺/長野県伊那市山寺3251


写真は6番札所「寿老人」蔵沢寺/駒ヶ根市中沢

 

 

小宮の御柱祭

寅年の今年、7年ぶりに諏訪の「御柱祭」が行われた事は全国の皆様もご存じの事と思います。

ところで、諏訪大社の御柱祭が終わると、いよいよ次は長野県内各地にある諏訪大社の小宮(こみや:諏訪の神様を分祀してもらった各地の神社)でも、御柱祭が行われることはあまり知られていません。
小宮の御柱祭は、「木落し」などの危険な行事は含まれませんが、盛大に里引きと建御柱が行われる神社が多くあります。
諏訪大社以外で最も有名な御柱祭は、伊那谷と諏訪盆地との境に位置する「小野・矢彦神社の御柱祭」です。こちらは諏訪大社の御柱祭(寅年と申年)の翌年に行われることでも知られ、、昔から「人を見たけりゃ諏訪の御柱、綺羅を見たけりゃ小野の御柱」と比喩されるほど、祭衣装の華やかさは昔から有名だったようです。

伊那谷で御柱祭が行われる小宮は、最南端である飯田・下伊那地方までの広範囲に及び、松本・安曇野地方にかけても行われているようです。不思議なのは、関東各地にも諏訪神社は数多く存在しますが、「御柱祭」までを行う神社は皆無なようで、御柱祭を行う境界線は、山梨県の甲府盆地までと思われます。

駒ヶ根市の御柱祭もいくつか行われますのでご紹介いたしましょう。
梨ノ木の諏訪社、東伊那の伊那森神社などが御柱祭が行われることが知られています。
旧村社格と思われる位の高い伊那森神社では、「秋の例大祭」に合わせて7年ごとに御柱祭が行われ、子供も含めた東伊那地区の氏子衆こぞって里引きの後、社殿を囲むように御柱が4本建てられます。
変わったところでは、中割のお屋敷入り口にある氏神様のような祠にも丁寧に御柱が4隅に建てられてお祀りされている祭殿もあります。
諏訪氏は武田信玄に滅ぼされてしまいましたが、諏訪氏から派生した一族は諏訪から南下した飯田市周辺に多く及ぶことも、御柱祭が南信州で受け継がれている理由の一つかもしれません。

各地の「小宮の御柱祭」は、コロナ禍ではどういった祭事になるのでしょうか?。とある下伊那の御柱祭では、「飲酒禁止」「里引きは部落の代表4名」という制限を設けられて「盛り上がらん…」と嘆く氏子の声を聞きました。

とは言え、諏訪地方ばかりではなく、飯田・下伊那地方にまで及ぶ伊那谷全域と山あいの集落にまで、諏訪の信仰と御柱祭の祭事が広く受け継がれていることをお伝えできればと思います。

(中割のかわいらしい御柱)

陣馬形山キャンプ場・南アルプス展望台

次男として駒ヶ根に生まれ、高校を卒業すると大学進学を期に上京した叔父がおりました。
陣馬形山へはわざわざ連れてきたわけではなく、ゴールデンウィークに家族じゅうで帰省してきたので、皆で「タラの芽」を採りながら山頂付近へと辿り着いたのでした。この脇道を入れば頂上尾根の「キャンプ場」という入口の少し先に展望スペースがあります。

Googleマップには「南アルプス展望台」などと書かれてはいますが、別段そんな立派なものではなく、簡単な丸太のベンチが備え付けてあるだけの場所です。おそらくは眼下に広がる、昭和45年に開拓された公共牧場の家畜小屋か、看舎の跡地なのでしょう。
それでもここから見渡す南アルプス山脈の眺望は素晴らしく、切り立つ3,000m級の峰々もさることながら、幾重にも連なる手前の深山も見事な光景で、しばし言葉を失います。さらには人々が暮らす伊那谷とは尾根を挟んだ反対側の為、騒音は一切なく、山間を渡る風の音しか耳に入るものはありません。

丸太のベンチに腰掛け、その景色にいたく感動する叔父は大きな息を吐きました。長い間勤め上げた都内の会社をその春に定年退職したばかりだった為、まるで山を通る風が自分の心の中をも吹き抜けたかのような感覚だったのでしょう。
18歳で故郷を離れて以来50年近く、生家の近くにはこんな景色が広がっていたことさえ知らなかったことを、少し後悔しているような背中にも見えました。
ほどなく叔父には癌が見つかり、憧れた定年後の田舎暮らしを謳歌することなく、瞬く間に逝ってしまったのです。

「天空のキャンプ場」の愛称で知られる陣馬形山キャンプ場は、年間1万人のキャンパーが訪れる有名キャンプ場です。そんな賑わいが間もなく始まる、雪解けしたばかりの静かな季節にこの展望場所を訪れると、あの時の叔父の気持ちに寄り添える気がします。
ひとりでも多く、皆様の田舎暮らしの夢が叶えられます様に。


陣馬形山キャンプ場・南アルプス展望台より望む秋の仙丈ヶ岳・鋸岳

神ともにいまして

3月は別れの季節です。
駒ヶ根も一通りのお別れが過ぎました。市内の小・中学校の卒業式は3月16~17日に、赤穂高校は3月3日に卒業式が行われています。
15歳で駒ヶ根を離れる少年少女。18歳で県外へと旅立つ若者は、そろそろ新天地で暮らし始める頃でしょう。
旅立つ息子・娘、勤務地へ赴く夫や兄弟・恋人。
孤独に涙する日でも、いつかはそんなことさえ忘れる時が来るものです。日本は新しい季節へと歩み始めました。

神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
御翼(みつばさ)の蔭に 絶えず育みませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ   (讃美歌第405番)

延期していた成人式

2022年もあるぷす不動産をご愛顧のほど、宜しくお願い申し上げます。

元旦翌日の1月2日、駒ヶ根市では成人式が行なわれました。
1月2日?そう、おかしいですよね。成人の日は「1月10日」で、全国ではこの日に式典を行います。
ところが、駒ヶ根市の場合は例年「お盆の8月15日」が成人式と決まっています。「街を離れている新成人でも、お盆の帰省に合わせた成人式ならば、共に過ごした同級生と出席できるだろう」そんな親心なのです。
ところが令和3年はコロナ禍で、お盆の定期開催を延期せざるを得ませんでした。「1月2日」が成人式だった理由は、昨年の新成人のための「延期していた成人式」だったのです。

思えば、令和2年度の新成人たちには「成人式」そのものが中止されてしまう辛い年でした。昨年も延期を決定した挙句、ようやく再開できた成人式です。本来は文化会館も休館で、開催を支えたスタッフも貴重な年始の休日を犠牲にしたはずです。どうか、そういった周囲の想いを受け止めて、広い視野を持てる大人に育ってください。

今年に入ってからは、オミクロン株とやらが騒がれています。早々に飲食店への客足は途絶え、観光業界にはキャンセルの連絡が急増していると聞きます。
しかし、もうこれ以上若者からあれやこれらを取り上げることは止めにできないでしょうか。データからは、持病を持たない健康な若者は回復できることがわかっています。

今日も高校生が肩を組んで登校していきます。
友達と肩を組んで歩くなんて、私たちにとっては何十年前の出来事でしょう?
彼らにとっては無意識の動作でも、友情を育む貴重な時間であり、人間が持つ親愛の情がまさに開花している瞬間です。
小池東京都知事にとっては「密」でしょう。けれども「離れて歩け」などとは言えない美しい光景です。正しく育った彼らにも、数年後の成人式は必ず提供してあげたいものです。


当社から望む中央アルプス

長野県の選手は12名 箱根駅伝2022

駅伝好きの長野県民は、お正月の風物詩・箱根駅伝を最も楽しみにしている県民とも言えるでしょう。

皆様は箱根駅伝の応援に出かけたことはありますか?
びっくりするほどに体脂肪が無く、マッチ棒のような細い選手たちには驚かされます。ところがこれが早い。10Kmを30分もかからず走り終えてしまう彼らの速さはママチャリ以上です。
必死で走る彼らは自分の為ではなく、ただひたすらにチームの為に苦しさを耐えて駆け抜けていきます。1秒でも早く「襷(たすき)」を届けたいとの一途な想いだけが、痛む脚や痛む肺の悲鳴を克服するのです。

いよいよ、沿道で応援するあなたの所へ、さあ!長野県の佐久長聖高校出身の選手が走ってきたとしたら…皆様はどうなるかを想像してみてください。
きっとどなたも、グッと喉の付け根が急に締め付けられるような感覚と共に、ご自身の意思とは関係なく涙が溢れ出していることでしょう。嗚咽交じりのその掛け声も周囲の声援にかき消され、懸命に走り去った姿にただただ感動してしまう…「箱根駅伝」とはそういう舞台なのです。彼が自分の町の子で、中学生の頃から「長野県縦断駅伝」にも選ばれていたほどの良く知る選手だったとしたら、あなたは応援する沿道でどうなってしまうでしょうか?

2022年1月2日~3日の箱根駅伝は第98回を迎えます。
今年も12名もの長野県の選手が、出場校の中にエントリーされています。今年も沿道での応援はNGだそうですが、テレビの画面越しに精一杯の応援を届けましょう。その想いはきっと伝わります。

長野県・出場予定選手(★伊藤大志君は駒ヶ根市出身)
【駒澤大学】鈴木芽吹(2年・佐久長聖)
【創価大学】濱野将基(3年・佐久長聖)
【青山学院大学】髙橋勇輝(4年・長野日大)
【東海大学】本間敬大(4年主将・佐久長聖)、松崎咲人(3年・佐久長聖)
、越陽汰(1年・佐久長聖)
【早稲田大学】中谷雄飛(4年・佐久長聖)、★伊藤大志(1年・佐久長聖)
【神奈川大学】宇津野篤(2年・佐久長聖)
【専修大学】木村暁仁(2年・佐久長聖)
【国士舘大学】清水拓斗(4年・長野日大)、長谷川潤(4年・上田西)

東京箱根間往復大学駅伝競走公その思い

年取り魚「飛騨鰤」

京都で食べられ始めた高級魚の寒鰤。京文化の導入に余念がない「飛騨高山」の豪商たちも、寒鰤を富山湾から輸入していました。一方では、北陸と江戸を結ぶ近道となる「野麦街道」が整備されます。富山発の塩漬け鰤「越中鰤」が飛騨高山へ着いた後、何とそこからは「飛騨鰤」とブランド名を変えて、野麦街道を信州へと向かう商いが生まれます。こうして信州(中南信地方)の「年取り魚」が鰤となっていった歴史背景があります。富山からの飛騨街道、松本までの野麦街道は共に「鰤街道」とも呼ばれています。

さて私たちの暮らす伊那谷へは、どういった経路で飛騨鰤はやって来たのでしょうか?
飛騨を出発した鰤が野麦峠を越え、奈川まで来てからは木曽へと方角を変え、「境峠」を越えて木祖藪原へと向かいます。木曽谷からはさらに「権兵衛峠」を越えて伊那谷へと飛騨鰤はやって来ました。
飯田行きの鰤は、木曽谷を南下した後に妻籠宿を過ぎてから「大平峠」を越えて飯田へと辿り着きました。
富山発の鰤が飛騨高山経由で伊那谷へ届くまでには、約半月の道のりだったと言います。しかし米1俵分(60Kg)とも2俵分とも言われた飛騨鰤1本の値段ですから、高級魚であった「飛騨鰤」が年取りの膳に上った家は、裕福な家だけに限られたと言われています。

伊那谷のどの家でも年取りに鰤が食べられるようになったのは、ずーっと後の昭和に入ってからの事でしょう。その頃にはすでに飛騨鰤ではなく、鉄道によって富山湾から直接運ばれた鰤だったはずです。すでに1902年(明治35)には国鉄が日本海まで繋がっていました。牛一頭で運べる鰤は最大15本程度とあっては鉄道輸送に敵うはずもなく、「牛」や「歩荷」に頼る鰤の輸送は昭和10年台に終焉を迎えます。江戸時代後期1760年頃~昭和初期1936年頃までの200年近く続いた文化歴史でした。

昭和10年頃とは、日本の生糸(シルク)の生産量が増し、伊那谷の農家にも「蚕」による現金収入が入り始めた時代です。この頃からようやく、各家庭で年取り魚としての鰤が食べられ始めたのではないかと考えられます。実際にはさらにもっと後だったかもしれません。興味深いことに飛騨高山でさえも「どの家でも年取りに鰤を食べられるようになったのは昭和40年頃だ」という証言もある程ですから、伊那谷での真相も定かではありません。
伊那谷で歴史的な「鰤街道の飛騨鰤」を食べたことがある方は、現在85歳以上で、さらにその中でもごく限られた方にとどまることだけは歴史上間違いないと思われます。

どうか安全な登山を。いってらっしゃい!

登山シーズンの長野県、山の事故も多く発生しています。
さっきまでピンピンしていた人が、いとも簡単に死ぬ…それが山の怖さです。でも防げる事故も圧倒的に多いハズ。運命を分けてしまうその「一瞬」に出会わないように安全な登山をしていただきたいと思います。

北・中央・南の3つのアルプスと八ヶ岳、そして御岳山・浅間山を有する長野県。今年の1月1日~9月27日までに、長野県内の山岳事故による死者・行方不明者は合わせて37名にも上ります。ほぼ1週間に1名の割合で誰かが亡くなるか行方不明。遭難事故はどこかでほぼ毎日発生しているのが長野県の実情です。
毎日のように県警山岳救助隊は出動をし、休む日もなく救助ヘリは飛び立ち、医療に尽くす人も多く関係します。更には善意の手助けを行う山岳協会や見知らぬ登山者、山小屋の人。登山はそうした人間の支え合いで成り立っています。

さて、山岳事故の約半数(48%)が転倒や滑落によるとのデータがあります。事故に遭われた方でも、実は「登山には慣れた人だった」というケースが大変多いのではないかと考えていますが、いかがでしょう?
行動のスケジュール管理も、ルートの状況も、天気予報も十分に心得ているにもかかわらず、じゃあなぜ事故は起こるのか?
私ごとですが、先日の雨上がりに歩道のマンホールで滑って転んでしまいました。「恥ずかしかったけど、ケガしなくて良かった」というだけの食卓の話題が、ではこれが山だったとしたらどうでしょう?取り返しのつかない事態に直結していて、二度と同じ食卓には付けなくなっていたかもしれません。山での事故は、こうした些細な「一瞬」が生死を分けているだけではないでしょうか。

山には慣れているとは言え、早朝から荷物を背負って足元の悪い場所を行くわけです。どんな人でもバランスを崩すことはあるでしょうし、注意力が散漫になる時間帯もあります。山に行きたいばっかりに仕事を無理してきたとすれば疲労が溜っているかもしれません。標高2,000mを超えると気圧も下がり体調にも変化が現れます。
そうした中で突然、ガスが周囲を覆い視覚や方向感覚を失う、急に寒くなる、浮石を踏む、濡れた岩で靴を滑らす、思いがけずつまずく…。
その時の「一瞬」…は突然です。
登山ルートは多くの人の手によって、可能な限り安全が保たれるように努力されています。しかし登山経験を持つ人であろうとなかろうと、わずかな一瞬はいつ、誰に容赦なく訪れるか知れません。
登山の最終目的地はご自宅です。どうか安全に。いってらっしゃい!
                                画像場所/中央アルプス千畳敷カール