「伊那」の意味/「言霊」を探る旅

南北90Kmに及ぶ広域な伊那谷。その「伊那」とは「伊那市のことだよ…」と多くの人がそう思い込んでいます。
…実はそうではありません。
今回は、「伊那(イナ)」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探る歴史旅です。

飯田市を中核都市とする飯田・下伊那郡の人たちにとって、自分たちの場所が「伊那?」それは全く腑に落ちません。
そりゃそうです。飯田は古くから発達した城下町であり商業都市であり、小京都と呼ばれる碁盤目の街並みの美しさと人口の多さ。しかもリニアが通ります。今も昔も飯田市が、伊那市よりずっと格上なのは誰の目にも明らかです。
とは言うものの、鉄道の駅名が示す通り、下伊那の奥深く、静岡県境にまで「伊那」の名称が残されている違和感を、下伊那の方々はお持ちでしょう。

~下伊那郡のJR駅名の数々~
・伊那小沢駅( いなこざわ) 下伊那郡天龍村
・伊那八幡駅(いなやわた) 飯田市八幡
・伊那上郷駅(いなかみさと) 飯田市上郷
・伊那大島駅(いなおおしま) 下伊那郡松川町

ところがです。どうぞ下伊那の皆さん、長年の溜飲を下げてください。
「イナ」の語源となったその場所は「伊那市」ではなく、皆様がお住まいの下伊那郡に存在します。

歴史的にも「伊那市」が広域な地域を支配したり、影響力が強かった事実はありません。
今の伊那市は、旧伊那村がその名の発祥で、伊那部村と合併したりして現在に至ります。ところが、現在の駒ヶ根市東伊那も、合併する以前までは上記とは別の「伊那村」を名乗っていたので、「伊那」とは古くから、このあたり一帯の総称だったと考えられます。つまり、伊那にある村だから伊那村だったり、伊那部村だった…。

歴史的にも、京都や幕府・明治政府から見た「伊那(伊奈)」とは、伊那市を指し示した事実はなく、現在で言う「伊那谷」広域のことであったことがわかります。その証拠として、
① 武士の律令制度の時代まで遡り、「伊那領」や「伊那郡」と呼ばれていた時代でも、役所・役人が置かれたのは伊那市ではなく、それは飯田市座光寺でした。
② 明治政府が廃藩置県で置いた「伊那県」も、県庁は飯島町の飯島陣屋だったのです。

我々は、「伊那谷全域を指す」意味で使われた「伊那」という地名を、勝手に「伊那市」の事だと思い込んでしまっていただけなのです。
「歴史上の伊那」と「行政名の伊那市」とは全くの無関係であり、古代からずっと、飯田を含む「伊那谷」の広い地域一帯を「イナ」と呼んでいたのです。

では、いよいよ「イナ」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探らねばなりません。
注意すべきことは、どんな漢字が当てられたかは古代の謎解きには全く必要がない事です。漢字は「言葉」を残すために、ずーっと後の4~5世紀頃から利用されるようになったに過ぎません。
それよりも重要なことは、古代から発音してきた「イナ」の言葉の意味は何なのでしょう?

その答えは、下伊那郡阿智村にあります。

そこは昼神温泉から園原へ向かう途中の小さな「阿智神社」。
方向を返せば、京都から東山道を行き、美濃から難所の「神坂峠」をようやく越えた先が、信濃の玄関口「園原」でした。その里を下った地に「阿智神社」があります。平安時代にまとめられた「延喜式」には既に記載されていたほどの相当に古い神社です。

由緒によれば、高天原(たかまがはら)随一の知恵の神とされる「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」が天から信濃にやってきて、この地で「阿智氏」を名乗って鎮座されたとあります。
興味深いのは、天孫族である阿智氏が、出雲族である諏訪氏に「睨み」を利かす目的で昼神の地に駐留したと伝わる点です。

さて、阿智神社の境内には、菱形の自然石=「磐座(いわくら)」が祀られています。「磐座」とは神が宿る石のことであり、この石は太陽信仰に基づき、冬至の太陽の位置に合わせて東西南北を指すように置かれた古代自然信仰の遺跡でもあります。
そして、この「磐座」こそが「天八意思兼命」の神上がり(神が天に昇られた)の場所とされ、「イナホラ(去洞/辞洞・この世を去るために入る洞)」と呼ばれてきたと言われています。
つまり、「伊那」は、この「イナホラ」の「イナ」が語源であり、「いなくなる」が言葉の意味(言霊/コトダマ)だったのです。

おそらく、「イナ」は「イヌ」と同義語でしょう。
「イヌ」とは、淡路島周辺の人々が「帰る/いなくなる」という意味で使う方言です(俺はいぬぞ!=俺は帰るぞ!)。
不思議に思うのは、淡路島は「伊邪那岐(イザナギ)」「伊邪那美(イザナミ)」から生まれた島であり、二柱の神の名前にも「伊・那=イ・ナ」の言霊が入っていることにも関連があるように思います。きっと、それぞれの音にも、意味/言霊は隠れているのでしょう。
古代日本の「言霊」を探る旅に、終わりはないようです。

阿智神社奥宮 磐座(Wikipediaより) ~ここが「伊那」の語源~