赤穂(あこう)と赤穂(あかほ)と忠臣蔵

2025年もあるぷす不動産をよろしくお願いいたします。

さて、投稿している本日は1月13日、旧暦の12月14日にあたります。
そう、「赤穂浪士」討ち入りの日です。

「駒ヶ根市赤穂…」を、「コマガネシ アコウ…」と復唱されることは、市民の多くが経験します。
駒ヶ根市の赤穂(あかほ)は、旧「赤須村」と「上穂村」が合併した際に一文字づつ取って「赤穂村」となったもので、それが現在でも町名として残っているという訳です。兵庫県の「赤穂(あこう)」とは縁があるようで無縁な「赤穂(あかほ)」ではありますが、そんな理由もあり「忠臣蔵」にも愛着が強いのは事実です。
そこで今回のブログは、「赤穂(あかほ)」の町民が、赤穂藩(あこうはん)の殿様を勝手に擁護するといった内容です。

そもそもこの物語は、歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」として演じられたのが始まりであり、しかも赤穂の殿様「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」が、とっても位の高い「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」に切りかかった理由は未だに「不明」とされており、即日切腹させられた罪状は「乱心」とされているのは極めて謎めいた話です。
しかし赤穂藩は、藩主・浅野長矩(あさの ながのり)を始め、家臣一同が曲がったことが大嫌い。そんな家柄から紐解くと、演目とは異なる忠臣蔵の史実が見えてきます。

「万世一系の天皇を中心に、仁政と平和が続く国こそが日本である」
この、儒学者・山鹿素行の教えが染みついた家柄が赤穂藩でした。
したがって、天皇の勅使を江戸城に迎える儀式において、将軍を上座、天皇(勅使)を下座に据えるという無礼な幕府の慣習が許せませんでした。
ところがそれは、訳あって「室町幕府」から続く慣例であり、皇室と幕府の儀式を司る第一人者・室町時代からの位の高い家柄である「吉良上野介」にとっても、どうにも変えられぬ幕府政権の慣習だったわけです。
それでも納得のいかない赤穂藩。1年目は何とかこらえましたが、業績が認められて2年目も接待役を命じられます。
ここで、現代の日本人と当時の武士の違いが現れます。
「一度ならずも二度までも、天皇に無礼な行為は続けられない!」
幕府に曲がった慣習を変えさせるには、自らの「命」と「城」を引き換えに訴えるしかないと、赤穂藩主・浅野長矩は決死の覚悟に出ます。
江戸城内で刀を抜けば切腹は定め。されど、申し開きの場において「勅使下向」の悪しき慣習を改めてくれるように、幕府に直接願い出ようとの覚悟でした。

当初から吉良殿を殺すつもりはありません。
殺そうと思えば武士ですから、短い懐刀であっても刃を横向きに心臓へ突き刺せば殺せることは心得ています。それをせず、懐刀の背の方で吉良殿の額をいくら強く叩いたところで死にはしません。
さて、いよいよ江戸城内は大騒ぎです。事件に及んだ理由はすでに幕府にも知れ渡っていた事でした。しかし、足利将軍・室町幕府からの慣習ですから、徳川幕府でも簡単には変えられません。しかも、この事件の最終責任者は「将軍・綱吉公」にまで及ぶ重要案件になってしまいました。
結果、下された評定は「浅野長矩の乱心」。申し開きの機会さえ与えられずに即日切腹。幕府は「知らぬ存ぜぬ」の立場を貫いたのです。

その後はご存じの通りの「吉良邸討ち入り」。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に四十七名の赤穂浪士は切腹。しかし切腹とは、武士の名誉が守られたことを意味します。
幕府から切腹が命じられた大石内蔵助。その時、使者からは次の事も告げられます。「この一件に鑑み、幕府は100年後に勅使下向を改め、天皇勅使を上座へ。将軍は下座へと席を改めるであろう。」
その100年後、江戸幕府では徳川綱吉公の遺言が実行され、以降は京都からの天皇勅使は上座に着かれるように改められました。
100年の時を経て、赤穂藩の願いは成就したというお話です。

(引用:作家・国史啓蒙家/小名木善行氏Youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=gapjzA3KhUk&t=1s

画:「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳。Wikipedia「忠臣蔵」より

過ぎ行く、駒ヶ根の「甲辰(きのえたつ)」

あと、いくつか寝るとお正月を迎える駒ヶ根です。

今年は「甲辰(きのえたつ)」の年で、夢が叶う年・成果が出る年とされていました。色では「甲」は青色を表す年でしたが、皆様にとってはいかがでしたでしょうか?
確かに、大谷翔平君のドジャースがワールドシリーズを優勝したり、まさかの横浜ベイスターズが26年ぶりに日本シリーズを優勝したことを思えば、「青色」の夢が叶った年と言えるでしょう。
従来のメディア報道や組織票を打ち破って当選した兵庫県知事・斉藤元彦氏、名古屋市長・広沢一郎氏の選挙カラーも、共に「青色」だったのは偶然でしょうか?。

「駒ヶ根は何もなかったね」と言うなかれ。
東西を山脈に挟まれた空はどこよりも澄み渡り青く、
2つの山脈は青い雄姿で佇み里を抱き、
闇に包まれる直前の夕暮れの5分間、伊那谷は紺碧のベールで覆われ続けた一年でした。
毎日を様々な青色と暮らし、「辰」である天龍川が伊那谷の中心に横たわる一年間であったことをご報告申し上げます。

来年は「乙巳(きのとみ)」の年で、「成長」「変革」の年回りとされます。色は乙(木)の緑色と巳(火)の赤色。
再就任するトランプ大統領は共和党の赤色がシンボルカラー。リベラル化したアメリカ国家を保守回帰させる意味では「変革」と言えるのかもしれません。
日本でも7月に参議院選挙があります。どうかいつまでも日本は、「赤い日の丸」がはためき、「緑」豊かな、日本人の為の国でありますように…。

最後にあるぷす不動産ブログとしては、都市伝説やオカルト界隈で騒がしい「2025年問題」を取り上げて終わりにしましょう。
これは2025年の7月5日(土)に、フィリピン沖の海底プレートを起因とする大津波が日本に到達し、内陸深くにまで津波被害に遭うという予言の存在です。
詳細は各自でお調べいただくとして、2025年7月5日(土)の長野県内の旅館・ホテル・キャンプ場等はどこも満室で予約が取れなくなるかもしれません☆%#$&¥?!。

反射的に「海がない場所=長野県」と発想できることが、オカルトファンの優れた素質。「土曜日だし、避難がてら信州へ」「何も起きなきゃそれで良し。取りあえずその日は長野へGO!」その、シンプルで素直な発想こそが彼らの取り柄。
皆様、どうぞ7月5日の県内予約はお早めに。その週末、長野県内は都市伝説ファンやオカルトファン、そしてその家族で埋まることでしょう。

今年も、当ブログへ8,000回も訪問していただきました皆様、誠にありがとうございました。
また年明けにお会いしましょう!


冷気に包まれ始めた駒ヶ根市

伊那谷の老人宅にも及ぶ危険性

首都圏近郊の、老人宅を狙った強盗・殺人事件。
これらは遠くの事件ではなく、伊那谷にも起こり得る危険性が潜んでいると考えています。「鍵をかけない不用心さ」や、「隣家まで距離のある犯行のしやすさ」「見知らぬ人でも容易に招き入れてしまう不用心さ」ばかりではなく、伊那谷に潜む危険な予兆は、すでにあちらこちらで起きているのです。

①お年寄りがおかしな商法から買い物をするケース。
かつて、老人を狙った詐欺ビジネス会社「○○ライフ」が存在しました。伊那谷でも、多くの老人が会場に集まる光景を飯島町や辰野町、伊那市などで目にしたものです。ご承知の通り、後にこの「○○ライフ」はマルチ商法や詐欺の疑いで倒産するのですが、今でも心配するのは、会場に出向いたご老人や、商法に乗せられたご老人の名簿はどうなったのか?という不安です。
お年寄りが、おかしな集会へ出かけたり、変な買い物をしてはいませんか?集められた名簿が、闇社会へ流通してしまっているとすれば不安です。

②高齢者が通販で買い物をしたケース。
通販が悪い訳ではありません。そこは誤解なくお願いします。
しかし、何故か「あそこの通販」で買い物をして以来、「屋根にソーラー載せませんか?」や「電気代を安くしませんか?」「スマホを安く買いませんか?」などの電話営業が増えたと感じるケースはありませんか?
あるいは、あなたの家だけに訪問販売がやって来たりしてはいませんか?何故か、隣の家には寄らずに帰っていくのです。
はたまた、犯行前の「下見?」と思われるような不審な車から、自宅を撮影していたりはしませんか?
これらは偶然や思い過ごしかも知れません。しかし、もしもご老人の名簿が社会に漏れていると想定すると、それは「通販に飛びつく客の名簿」→「騙されやすいタイプの名簿」と解釈をされて、名簿が転売されているのかもしれません。
おかしな通販商品を購入した形跡があれば、家族が十分気を付けてあげてください。

驚くことに、強盗・殺人の実行犯は「闇バイト(高額アルバイト)」へ応募した普通の若者だと言います。そんな普通に見える若者が、「狙いを付けた老人宅」へ「水道局の点検です」と称して家の中へ入ろうとする。こういった「偽装訪問」を、伊那谷のお年寄りたちは断る事ができるでしょうか?

若者に貧しい生活を強いる社会は、必ず犯罪率を引き上げます。
ごく一般の若者が簡単に犯罪者に落ちる世の中であり、そして犯罪の矛先をお年寄りに向け、容易く殺傷してしまう日本になり下がってしまいました。
今からでも日本を取り戻す希望は持ちつつも、せめて伊那谷のお年寄りは犯罪から守れるように、地域の皆で気を付けたいと思います。

駒ヶ根市馬場から望む、リンゴ畑と南アルプス

甲州征伐と武田氏滅亡。戦場となった伊那谷

442年前、織田信長は武田氏を滅ぼす総攻撃を行いました。世にいう「甲州征伐」です。この時伊那谷は、織田信長と嫡男・信忠率いる本隊が北上し、武田勢力下にあった私たちの伊那谷は戦場となりました。

1582年(天正10年)、織田信長の本隊は信濃に侵入し、伊那街道(およそ国道153号線沿い)を甲府を目指して北上します。兵力18,000人にも及ぶ大軍勢でした。
それに対し、せいぜい数百名の兵力であっただろう伊那谷の各城にしてみれば、寝返って生き延びるか、討ち死にするかの二者択一です。

寝返ったのは下伊那郡の各城。
信濃へ入った初日に、平谷村/阿智村一帯の豪族・下条氏は織田軍に寝返り。
飯田市手前の「松尾城」小笠原氏も寝返るどころか、狼煙を上げて織田軍の侵攻を手引きします。
飯田へ入ると「飯田城」保科正直も戦わずに高遠城へと逃亡。
武田領の要塞だった松川町の「大島城」まで北上した際にも、武田勝頼の叔父・信廉でさえ、甲斐国へ逃亡してしまいました。
こうして、事実上戦わずして下伊那郡の戦線は崩壊してしまいました。

無抵抗のまま進軍をしてきた織田軍勢でしたが、一転、上伊那郡に入ると戦況は変わります。
大島城から5kmほど北上した先には「船山城」(松川町上片桐/中川村片桐)が現れます。築城は片切氏と呼ばれる信濃の名族で、今でも「片桐」の名は地名や苗字に色濃く残っています。
この船山城から高遠城までは、現代の行政区分で言う「上伊那郡」へと地域が変わり、地理や気候風土、話し言葉にも変化が表われますが、何よりもこの時、上伊那勢は戦う(=討ち死にする)側を選択したのです。

そうして虚しくも「船山城」は落城。400有余年の歴史に終わりを告げますが、次に待ち構えるのは、北へ6Kmの飯島町七久保の「北山城」。
「北山城」を守っていたのは、船山城主の家臣である上沼氏でした。
されど北山城も落城。
ところがこの戦では、敵味方合わせて1,000体もの戦死者が出たとされます。数の多さから推測すれば、船山城落城後も、命ある一族は北山城へ再度集結して最後の戦に臨んだのかもしれません。いずれにせよ、余りに多い戦死者や武具一切を埋めて塚として葬ったのが、今の飯島町七久保の「千人塚公園」です。

進軍はさらに北上し、駒ヶ根市の「赤須城」に迫ります。
その「赤須城」もまた、「船山城主・片切為清」の子である片切孫三郎為幸によって築かれた城であり、代々「赤須氏」を名乗って居城としてきたものです。
この時、8km後方の戦況は十分に承知していた事でしょう。援軍など、もはや望むべくもなく、織田軍勢が到着する時が赤須城の落城=赤須氏の滅亡であることも覚悟したに相違ありません。宗家の「船山城」片切氏やその家臣「北山城」上沼氏と、運命を共にする覚悟を決めたのです。

その後の伊那市「春日城」伊那部氏、武田の支城であり伊那谷の本城「高遠城」も陥落。こうして織田軍は伊那谷を制圧後、諏訪を経由して甲州までの進軍を果たしたのでした。その後はご存じの通り、追い詰められた武田勝頼は山梨県甲州市「天目山」にて一族家臣共に自害し、甲斐・武田氏は滅んだのです。

片切グループである「船山城」「北山城」「赤須城」を制圧するなどは、恐らく1週間程度の事だったでしょう。織田軍にとってはわずかな戦だったはずです。しかし上伊那郡の各城では、わずかな期限で逃げない決断をし、わずかな期間で死の覚悟を決め、瞬く間に多くの血が大地に染み込み、多くの遺体が転がり、激しい血の臭いが辺り一帯を覆ったのです。

織田軍が伊那谷の人間を次々と切り殺しながら進軍した事実。それをドラマや小説ではなく身近に起こったリアルとして想像する時、それはまさに今映し出されるイスラエルやウクライナの悲惨な映像と同じです。あれが、ここでも起きていたのだという事実に置き換わります。
とある大学生がデモ中におっしゃいました。「戦争になる前、僕だったら相手の所に出かけて行って、一晩中酒を酌み交わして解決する!」
しかし、大学生が本来すべき事は、毎日の戦争映像を見つめ、世界の現実とは何かを知り、深く考え、多くの歴史を学ぶことです。

(千人塚公園の夕暮れ)織田氏による武田氏甲州征伐の舞台のひとつ

 

「斎庭稲穂の神勅」と伊那谷のコメ不足

天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫が、地上(日本)に降臨したので天孫降臨です。
孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」には、天照大御神から「稲穂」を授けられました。「この稲を育てて日本を豊かにするように…」そう仰せになります。これが「斎庭稲穂の神勅(ゆにわいなほのしんちょく)」で、日本人が米を食べることになった始まりです。

日本人であれば、米を食べずに生きてはいけないでしょう。
外食を嫌う大谷翔平君もその一人です。
稲穂を授けてくれた天照大御神の子孫が、今の126代天皇・徳仁陛下であり、日本はその皇統が2,684年間も続く世界最長国であり、米がなくては生きられないのが日本人です。これが私たちの国柄です。
ところが、スーパーからコメが消えて3週間になりました。「令和のコメ不足」だそうです。

しかしおかしなことに、田んぼ農家である伊那谷のお爺さんたちは、息子夫婦や孫たちにこう言います。
「やい、オメー達。ちーっと米を食ってくれにゃ、余ってしょうがねーわ!」
「令和のコメ不足」の中、伊那谷の農家では、米は足りないどころか、余っているのが実情です。食生活が変化し、人口減少の現代では、昔ほど自家製米は消費しないのです。
令和のコメ不足は流通米のトラブル。スーパーからコメが消えるのは都会も地方も同じで、出荷調整されて市場に流れる流通米が、ひょんな事情から足りなくなってしまったに過ぎません。
こんな理由で日本人が米を食べられない現状には、神々も憂いている事でしょう。

大阪府の吉村知事が、国の備蓄米を放出するように発言しても、お役人は「間もなくすれば新米が出回るので、コメ不足は解消されるだろう」と、他人事です。
今日のコメさえ無いのに、国家公務員には育ち盛りの子供や孫はいらっしゃらないようです。政治家に至っては、やれ「総裁選出馬だ」などと躍起で、国民を憂う発言は聞こえてきません。

「斎庭稲穂の神勅」を知らず、日本人の食文化、国の有りようを心得ていない人々こそ、「令和のコメ不足」の根本原因ではありませんか?
「米」は決して切らしてはいけないのです。十分足りているのに…。

中高年家庭である、我が家の米なし生活も2週間以上が経過しました。
親戚知人に頼れば良いのでしょうが、それでもスーパーへ行けば、他の食料品は途切れることなく並んでいます。被災したことを想えば夢の様な生活なので、子供のいる家庭に十分行き届いた後、お米は購入したいと考えています。

(追記)10月11日のスーパーには、以前に近い状態までお米が並ぶようになりました。お盆過ぎに起きた「令和のコメ不足」の解消には、丸々2か月間を要したひどい状況だったのです。

【日本のお米は「斎庭稲穂の神勅」の一握りの稲穂から、一粒万倍を繰り返して現代に実る】~駒ヶ根市東伊那の水田地帯~

あるぷす不動産のブルーべリーと量子力学

膝の痛い同級生が、グルコサミンを飲んでいると口にします。
すかさず別の同級生が噛みつきました。「オメーなぁ、グルコサミンを飲んだって、胃で糖分に分解されて終わりだぞ!。膝まで到達する訳ね―じゃねえか!」全くその通りで、法的に許されてはいても、これらの商法には眉をひそめます。

さて、あるぷす不動産の自宅の畑には「ブルーベリー」の木が20株くらい植えられています。ブルーベリーの果実は今が収穫期で、間もなく季節を終えようとしています。
このブルーベリーは先に逝ってしまった中城社長の夫人が残してくれた、想い出の木です。社長の中城は目にハンディを抱えることから、それを気遣って「沢山のブルーベリーを食べさせたい」という妻の願いによって、多くの苗木が植えられました。

ブルーベリーに含まれるアントシアニンが「目に良い」というのは、お決まりのキャッチコピーではあるものの、これもグルコサミンの例に漏れず、医学的に証明されていることではありません。
しかし、あるぷす不動産のブルーベリーは、夫である中城の目には効果があると思えて仕方がないのです。

それを証明する方法はないものか?と考えた時、「量子力学」論を用いれば説明が付き、多くの方にも「確かにその通りだわ…」とご賛同いただけるのではないかとの思いに至りました。
さらにそこから気付いたことは、「死してなお、人はこの世に存在し続ける」という仏様の世界です。

* * *

さて、まず最初に「愛する夫の目が健康でありますように…」という願いによって、ブルーベリーの苗は植えられました。
植物でありながら、ブルーベリーをどんどん細かく見ていくと「素粒子」という、人の目には見えない最も小さな存在に行き着きます。
次にブルーベリーを育てる太陽。太陽の光も分解すると「光子」という光の粒である「素粒子」に行き着きます。
ブルーベリーの素粒子は、太陽の素粒子を取り込むことで育つのです。

話は少し戻り、ブルーベリーの苗を植えた時、「夫の目が健康であります様に」と、夫人からは「願い」の「生体素粒子」が飛んでいて、植えられた苗木の素粒子との間では、波長の共鳴が起きていると考えられます。
つまり、ブルーベリーは自分が何の使命を持って、ここに植えられたかを知った訳です。

そしていよいよ果実の収穫を迎えます。太陽エネルギーの素粒子と、夫人の願いの素粒子とが共鳴し合ったブルーベリーの素粒子です。
その果実を口にした時、夫の中城には妻の願いを受け取った「幸せ」の生体素粒子が飛ぶと考えられます。夫人の「願い」の素粒子は、ブルーベリーの素粒子を介して、夫の「幸せ」の素粒子とで共鳴し合うことにより「願いは確かに届いた」と言えるのです。
これは毎年毎年、このブルーベリーを口にするたびに起こります。
当然ながら、夫である中城の目には、アントシアニンなどと言う成分を超越した、夫人からの「生命の輪」が届けられたと言って良いでしょう。

答えを言い変えれば、「このブルーベリーは、夫の中城の目には本当に効くのだ」という結論になることをご理解いただけましたでしょうか?。目に効くどころの話ではないのです。
さらには、量子力学的な論理から見え隠れするものは、これら全ての結びつきが、仏様の世界でもあるように思える事です。病床における夫人は、多くの写経を残し、我々に仏様の存在を教えてくれています。
そして死してなお、夫人(の素粒子)はブルーべりーの木に宿って生きているのです。
令和6年のお盆を前に ー合掌ー

(完結編)UFOと火山、そして諏訪大社

「UFOと関係が深いとされる火山どうしを結ぶと、きれいな二等辺三角形を形成する。その三角形での出来事だったのか?」といった内容が、前回のブログでした。
UFOと火山との関係から始めた考察でしたが、実は思いもよらない「もう一つ」の事実も示しています。
今回は完結編。「諏訪大社と火山の関係」と言う内容です。
伊那谷は諏訪大社の御神域でもありますのでお付き合い願います。

そもそも二等辺三角形が地表に現れること自体、数学の意思・測量の意思が働いていやしないだろうか?と考えたりもしましたが、こればかりは神の領域・地球の意思なので判別は付きません。
ところが、興味深いことを見つけています。御岳山と八ヶ岳の火山どうしを結んだライン上には、確かな「神」の存在があることです。

御岳山は記憶にも新しい噴火の山ですが、一方の八ヶ岳も噴火で山頂が崩壊してしまう以前は、富士山よりも標高が高かったという事実も留めておいてください。
そして、御岳山と八ヶ岳を結んだ火山のラインを注意深く見てみると、諏訪大社のご神体とされる「守屋山」が存在しています。

余談ですが、「モリヤ」とは、旧約聖書にある「アブラハムが息子・イサクの首を神に奉げようとした場所」こそが「モリヤ山」であり、イスラエルの支族が諏訪にやってきた後、古代イスラエルのモリヤ山を、諏訪に置き換えたのが「守屋山」であるとも言われています。
「固い信仰心は、神に伝わる」その記述が旧約聖書での「モリヤ山」での出来事であり、アブラハムの信仰の確かさを見た神は、イサクの首を切ることを止めさせ、イサクの代わりに羊が生贄となったという記述に由来するものが、諏訪大社においては、鹿の首を神に捧げる神事として再現されている…という説を聞いたことがあります。
日本人の4割に、中東由来のDNAが含まれている事も相まって、
「日ユ同祖論」の根拠のひとつに加えられている話です。


どうも、諏訪大社と火山には因果関係がありそうです。
寺田寅彦(物理学者・旧東京帝国大学教授)の仮説。「日本神話に登場する須佐之男命(スサノオ)の正体とは、火山の事ではないのか?」を当てはめれば合点がいきます。
火山の噴火は日本列島における地震と並ぶ最大の天災。天照大御神(アマテラス)は、暴れん坊のスサノオのせいで「天の岩戸」に隠れてしまったという神話は、「火山の噴火」による、アマテラスの岩戸での避難生活ではなかったのかとも考えれば現実味を得られます。

いずれにせよ、「スサノオ」は出雲系(=諏訪の)祖神であり、「火山」を司った神であるとすれば、2つの火山を遥拝し、怒りを鎮める場所として、ライン上にある守屋山を、諏訪の「御神体」としてお祀りしたようにも思えます。

さらに古代の諏訪の人は、この地が大断層(中央構造線と糸魚川静岡構造線)の交差点であることも何故かわかっていて、作家「戸矢 学」の言うように、御神木を神社の四隅に打ち付けて、地中に潜む「神の怒り」を封じ込めようとした「祈り」が「御柱祭」なのかもしれません。

「甲府事件」と伊那谷UFOの考察から始まった話は、「火山」がファクターとなり「諏訪大社」にまで及びました。
いずれも、当ブログによる誠に勝手な考察であることをお許し下さい。
古代史は謎に満ち溢れています。
2回に渡るヲタ話、お付き合いくださいましてありがとうございました。

諏訪大社前宮 一之御柱

甲府事件と伊那谷のUFO

甲府事件と言っても凶悪な殺人事件などではありません。ましてや甲府の出来事が、駒ヶ根とどう関係があるのか?と思われるでしょう。
それが案外、関係ないとは言えそうもない独自の研究考察と体験談。
今回のブログは、1975年に甲府で起きた「UFO・宇宙人遭遇事件」と、1978年に伊那谷で筆者が目撃した謎の飛行物体。この2つに結びつく真実はあるのか!?とする、真面目なUFO考察のお話しです。

始めに甲府事件の概略です。
今から50年前になろうとする1975年の夕刻。夕食前なのに、いつまでも外で遊んでいた従弟の2人組小学生。
彼らの近くのぶどう畑に、オレンジ色に発光するUFOが着陸しました。近くまで寄ってみると、小学生たちと同じ位の身長をした宇宙人2人が乗っていて、何と一人は外へ出てきて「クチュクチュクチュ…」と声を発したのです。
驚いて腰を抜かしてしまったA君をB君が背負って隣のお堂まで避難します。そして夕飯の支度をする母親へと助けを求めました。
駆け付けた母親たちも、オレンジ色に発光するUFOが飛び去るのを目撃します。
オレンジの光は「南アルプス方向」へと飛び去り、さらにその光は清掃工場の管理人や別の同級生も、同時刻にそれぞれの場所から目撃していました。
複数の目撃者がオレンジのUFOを目撃したこと以上に、宇宙人に遭遇した唯一のUFO事件として「甲府事件」はとても有名です。

さて、なぜ甲府だったのか?と考えます。
推測の一つとして、UFO研究家がよく口にする「UFOと火山は密接な関係があるらしい」という発言…。皆さん、Googleマップを開いて、火山である八ヶ岳(硫黄岳)と富士山を直線で結んでみてください。直線のライン上に「甲府事件」の現場があります。
また、注目すべきは「南アルプスの方角へ飛んで行った」という目撃談。
南アルプス・中央アルプス共に火山はありませんから、事件現場から南の火山は御岳山。そして、御岳山=八ヶ岳(硫黄岳)=富士山を結ぶと、それはきれいな二等辺三角形を形成し、駒ヶ根市はおろか、上伊那郡全域をカバーしています(下図参照)。

* * *

さて、時は甲府事件から3年後の1978年・伊那谷の夏。
その日は朝から気温が高く、夏休みだった筆者は学校のプールへと出かけたのでした。
あいにく同級生には出会えず、同じ部活仲間のT君とプ―ル脇のコンクリートで甲羅干しをしていた時の事です。
「あれ何?」とT君は私にも見るように促します。「あ、本当だ…」
その後の約20秒間の景色は今でも鮮明に記憶に焼き付いています。
銀色の浮遊する物体一つが、天竜川西岸の低い上空をスーッと北上してきます。位置的には、小渋川が天竜川に合流する周辺上空のような気がします。
当時に伊那谷を飛来していた爆音・銀色の自衛隊機「F-104スターファイター」とは明らかに違います。
音を発せず静かに、しかも空気抵抗が無いかの様に飛んでいるのが不思議でした。間もなく近くまで来れば、全体像が分かるだろうと思いながら見ていたその進路上には、小さな雲の塊があります。
物体は雲に入り、抜け出せば、さあいよいよその姿を確かめられる…と静かな気持ちで待ち受けました。が、しかし飛行物体は雲から出てこないのです。何事も無かったかのように小さな雲はそこにあり続け、物体は消えてしまいました。
プールの様子を見渡しましたが、キャッキャッと騒ぐ中学生以外、我々と同じものを見て口を開けている者などはいませんでした。

甲府事件から間もなく50年。当時の小学生も還暦です。「ウソ発見器」にまでかけられ、マスコミにおもちゃにされてすっかり口を閉ざしてしまった少年が、「あれは本当の出来事だ」と、還暦を契機に発言し始めたことを知り、筆者が中学生の頃に見た謎のアレも、甲府事件と関係があったのかもしれないなぁ…と思い始めた今日この頃です。

 

天下の糸平(てんかのいとへい)

「郷土の隠れた偉人」と称されるように、生まれ故郷の駒ヶ根でさえも多くの人がその存在を知りません。歴史の表舞台に刻まれなかったのはなぜでしょうか?
今回のブログは、当社の主観で「天下の糸平」に迫ります。あくまでも一考察としてご理解いただき、歴史認識へのご批判は寛容にお許し下さい。

結論から言えば、「天下の糸平」こと田中平八(たなかへいはち)は、その素性が「相場師」であったことが、表舞台から疎まれた理由と考えています。

相場師としてのDNAは生まれ持ったものだったかもしれません。
1834年、伊那郡赤須村(現在の駒ヶ根市・駒ヶ根郵便局のあたり)にて、平八(幼名:釜吉)は生まれました。資産家だった生家は相場に失敗して没落します。そのため、12歳頃には飯田の魚屋へ丁稚奉公に出されました。

1853年に結婚。飯田ご城下の染物屋・田中家の婿養子に入りますが、今度は自身が米相場で大失敗。

江戸へ出たのが幕末の混乱期。倒幕運動側の尊王攘夷運動に傾倒しますが投獄。出獄後の生きる道はやはり相場だったようで、横浜へ出ます。
ちょうど生糸(シルク)の輸出に沸き始めた横浜港。「糸屋平八商店」を開業して、ここからの人生が大成功を収めるのです。
生糸や洋銀相場で財を成す勢いは「天下の糸平」の異名を取り、横浜金穀相場会所、洋銀相場会所を設立するなどして、相場の世界で「天下人」となったのです。
しかし、あろうことか外国人商人との貿易を巡り、偽札を刷って見せ金としたことが露見。これをもって横浜の商売からは手を引く羽目になりました。

東京へと移っても相場の天下人は健在。東京株式取引所や東京米穀取引所を設立。ここでも大儲けをしたとされています。
いかがでしょう?実業家と言うよりは、平八はあくまでも「相場」に生きた人だとわかります。

一つのエピソード。故郷である飯田の農家から生糸を買い入れた際の、平八の手口が知られています。
まず、3百両(現在の3千万円)の手付金を持って飯田に帰り、10倍の3千両(3億円)分の生糸を仕入れます。横浜に持ち帰った生糸は、さらに10倍の3万両以上(30億円以上)で外国商社に売り渡したという大儲け話です。
3千万円のキャッシュで、30億円の商売をする傑出さには恐れ入りますが、郷土の為に、郷土の農業振興に尽力したとの印象が持てないのは、私共だけでしょうか。
飯田警察署入り口には「天下の糸平」と書かれた顕彰碑がありますが、飯田の人の多くが石碑の意味を知らないことが、真実を物語っている気がします。

さて、こうした天下人の財力は、どこに注がれたのでしょう?
それは他の財界人の様な鉄道事業への投資でもなければ、日本美術品の保護収集でもありません。
吉原から「お倉」という女性を身請けしますが、お倉には横浜の大料亭「富貴楼」を任せます。富貴楼は料亭政治の先駆けとなり、伊藤博文、大久保利通、山形有朋、大隈重信などといった明治の”表舞台”の偉人が足しげく通う一方、岩崎弥太郎、渋沢栄一といった財界人や市川團十郎などの芸能人も通うほどの一流の社交場でした。

平八は討幕派でしたから、明治の偉人達とは人脈形成でも運が味方したように思います。莫大な財産は、これらの表舞台の政治家たちに、裏の舞台から還流したであろうことは想像に難くありません。その裏舞台が「富貴楼」であり、莫大な財力は、平八をフィクサーとしての立場へ擁立したのでしょう。
素性は「相場師」であり、しかも「無学」。
明治の「フィクサー」は歴史の中にひっそりと収まることの方が、むしろ必然だったのかもしれません。それが当ブログ的考察です。

1884年、平八は肺結核により熱海療養中に51歳で没します。
想像するに、多くの人から嫌われ、嫉まれた人生だったことでしょう。
しかし、他人の目などお構いなしに、巨万の財を得る為に生き、そしてその財は近代国家を目指す明治という時代へ消えていった。

東京墨田区向島「木母寺」に建てられた墓碑には、伊藤博文の筆で「天下之糸平」と刻まれました。天下とは「天下の相場師」…ではなく、「天下の金持ち」という意味だったのではないでしょうか?。しかしその金は、「明治近代国家に役立ったぞ!」そんな伊藤博文の心情を読み取れる碑文字であると思います。

天下の糸平出生地の碑(駒ヶ根郵便局北口)

アクアで我慢する若者~新年度の始まり~

とある工場の応接室は使用中だったので、食堂に通されました。
食堂では、遅い昼食を取る社員同士の会話が聞こえます。
「クルマ替えたの?」
「…ええ。」
二十歳そこそこの若者がクルマを購入したことに、年上の同僚が食いつきますが、若者にとっては乗りの悪い話題のようです。
「狭くない?プリウスの方が良かったじゃん!」
なんと若いのに、小型ハイブリッド車「アクア」を買ったようです。
「…フェアレディZじゃねーのかよっ!」私は心の中でツッコミを入れています。昭和ならば「スカイライン」や「Z」、「セリカ」といった車種が、この年齢の定番だったからです。

若者のクルマ離れはここまで深刻なのか!そう感じました。
彼にとってのクルマは、通勤道具でしかなければそれまでの事です。
わずかな給料と、将来が見出せない社会生活では、燃費の良いクルマこそが最優先なことも理解できます。SUVでもなくてもスノボーへは行けますし、高性能なスポーツカーである必要もありません。でも若者には、若者らしいクルマ選びがあるはずだと思うのです。そして何よりも心に引っかかったのは、受け答えの面倒くささに混じった「寂しさ」があったことです。

ふとっ、後日になってからある想いが脳裏を横切ります。
「彼だって本心は、フェアレディZやSUVが欲しかったのではないか?」
それなのに、『欲望を押し殺して生きる術』が身に付いてしまって、そんな育ち方をしてきてしまったのではないだろうか?…と。

考えても見れば、今の二十代は、生まれた時からずっと不景気な日本で育ちました。どの家庭も、苦しい経済状況の中で、やっとの思いで子育をしてきたはずです。どうにか大学までは卒業しても、就職後に自身の借り入れ奨学金の返済で四苦八苦している30代独身が五万といます。

若者が「夢や希望」を持てないままの社会で良い訳がありません。欲望を押し殺し、明日をも知れない人生を若者に強いる社会ではいけません。さあ、新年度の始まりです。若者が希望の持てる社会に向かいますように。

駒ヶ根市中沢「穴山の桜」