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さて、投稿している本日は1月13日、旧暦の12月14日にあたります。
そう、「赤穂浪士」討ち入りの日です。
「駒ヶ根市赤穂…」を、「コマガネシ アコウ…」と復唱されることは、市民の多くが経験します。
駒ヶ根市の赤穂(あかほ)は、旧「赤須村」と「上穂村」が合併した際に一文字づつ取って「赤穂村」となったもので、それが現在でも町名として残っているという訳です。兵庫県の「赤穂(あこう)」とは縁があるようで無縁な「赤穂(あかほ)」ではありますが、そんな理由もあり「忠臣蔵」にも愛着が強いのは事実です。
そこで今回のブログは、「赤穂(あかほ)」の町民が、赤穂藩(あこうはん)の殿様を勝手に擁護するといった内容です。
そもそもこの物語は、歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」として演じられたのが始まりであり、しかも赤穂の殿様「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」が、とっても位の高い「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」に切りかかった理由は未だに「不明」とされており、即日切腹させられた罪状は「乱心」とされているのは極めて謎めいた話です。
しかし赤穂藩は、藩主・浅野長矩(あさの ながのり)を始め、家臣一同が曲がったことが大嫌い。そんな家柄から紐解くと、演目とは異なる忠臣蔵の史実が見えてきます。
「万世一系の天皇を中心に、仁政と平和が続く国こそが日本である」
この、儒学者・山鹿素行の教えが染みついた家柄が赤穂藩でした。
したがって、天皇の勅使を江戸城に迎える儀式において、将軍を上座、天皇(勅使)を下座に据えるという無礼な幕府の慣習が許せませんでした。
ところがそれは、訳あって「室町幕府」から続く慣例であり、皇室と幕府の儀式を司る第一人者・室町時代からの位の高い家柄である「吉良上野介」にとっても、どうにも変えられぬ幕府政権の慣習だったわけです。
それでも納得のいかない赤穂藩。1年目は何とかこらえましたが、業績が認められて2年目も接待役を命じられます。
ここで、現代の日本人と当時の武士の違いが現れます。
「一度ならずも二度までも、天皇に無礼な行為は続けられない!」
幕府に曲がった慣習を変えさせるには、自らの「命」と「城」を引き換えに訴えるしかないと、赤穂藩主・浅野長矩は決死の覚悟に出ます。
江戸城内で刀を抜けば切腹は定め。されど、申し開きの場において「勅使下向」の悪しき慣習を改めてくれるように、幕府に直接願い出ようとの覚悟でした。
当初から吉良殿を殺すつもりはありません。
殺そうと思えば武士ですから、短い懐刀であっても刃を横向きに心臓へ突き刺せば殺せることは心得ています。それをせず、懐刀の背の方で吉良殿の額をいくら強く叩いたところで死にはしません。
さて、いよいよ江戸城内は大騒ぎです。事件に及んだ理由はすでに幕府にも知れ渡っていた事でした。しかし、足利将軍・室町幕府からの慣習ですから、徳川幕府でも簡単には変えられません。しかも、この事件の最終責任者は「将軍・綱吉公」にまで及ぶ重要案件になってしまいました。
結果、下された評定は「浅野長矩の乱心」。申し開きの機会さえ与えられずに即日切腹。幕府は「知らぬ存ぜぬ」の立場を貫いたのです。
その後はご存じの通りの「吉良邸討ち入り」。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に四十七名の赤穂浪士は切腹。しかし切腹とは、武士の名誉が守られたことを意味します。
幕府から切腹が命じられた大石内蔵助。その時、使者からは次の事も告げられます。「この一件に鑑み、幕府は100年後に勅使下向を改め、天皇勅使を上座へ。将軍は下座へと席を改めるであろう。」
その100年後、江戸幕府では徳川綱吉公の遺言が実行され、以降は京都からの天皇勅使は上座に着かれるように改められました。
100年の時を経て、赤穂藩の願いは成就したというお話です。
(引用:作家・国史啓蒙家/小名木善行氏Youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=gapjzA3KhUk&t=1s
画:「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳。Wikipedia「忠臣蔵」より