年取り魚「飛騨鰤」

京都で食べられ始めた高級魚の寒鰤。京文化の導入には余念がない「飛騨高山」の豪商たちも、寒鰤を富山湾から輸入していました。一方では、北陸と江戸を結ぶ近道となる「野麦街道」が整備されます。富山発の塩漬け鰤「越中鰤」が飛騨高山へ着いた後、何とそこからは「飛騨鰤」とブランド名を変えて、野麦街道を信州へと向かう商いが生まれます。こうして信州(中南信)の「年取り魚」が鰤となっていった歴史背景があります。富山からの飛騨街道、松本までの野麦街道が「鰤街道」とも呼ばれています。

さて私たちの暮らす伊那谷へは、どういった経路で飛騨鰤はやって来たのでしょうか?
飛騨を出発した鰤が野麦峠を越え、奈川まで来てからは木曽へと方角を変え、「境峠」を越えて木祖藪原へと向かいます。木曽谷からはさらに「権兵衛峠」を越えて伊那谷へと飛騨鰤はやって来ました。
飯田行きの鰤は、木曽谷を南下した後に妻籠宿を過ぎてから「大平峠」を越えて飯田へと辿り着きました。
富山発の鰤が飛騨高山経由で伊那谷へ届くまでには、約半月の道のりだったと言います。しかし米1俵分(60Kg)とも2俵分とも言われた飛騨鰤1本の値段ですから、高級魚であった「飛騨鰤」が年取りの膳に上った家は裕福な家に限られたと言われています。

伊那谷のどの家でも年取りに鰤が食べられるようになったのは、実は昭和に入ってからの事でしょう。その時はすでに飛騨鰤ではなく、鉄道輸送で富山湾から直接運ばれた鰤だったはずです。すでに1902年(明治35)には国鉄が日本海まで繋がっていました。牛一頭で運べる鰤は最大15本程度とあっては鉄道輸送に敵うはずもなく、「牛」や「歩荷」に頼る鰤の輸送は昭和10年台には終焉を迎えます。江戸時代後期1760年頃~昭和初期1936年頃までの200年近く続いた歴史文化でした。

そして昭和10年頃には、日本の生糸(シルク)の生産量が増し、伊那谷の農家にも「蚕」による現金収入が入り始めた時代です。この頃からようやく、本当の意味で鰤が年取り魚として各家庭でも食べられ始めたと考えられます。実際にはさらにもっと後だったかもしれません。興味深いことに飛騨高山でさえも「どの家でも年取りに鰤を食べられるようになったのは昭和40年頃だ」という証言もある程ですから、伊那谷での真相も定かではありません。
ただし、伊那谷ご出身で歴史的な「鰤街道の飛騨鰤」を食べたことがある方は、現在85歳以上の中にあって、しかもごく限られた方にとどまることだけは歴史上間違いないと思われます。

どうか安全な登山を。いってらっしゃい!

登山シーズンの長野県、山の事故も多く発生しています。
さっきまでピンピンしていた人が、いとも簡単に死ぬ…それが山の怖さです。でも防げる事故も圧倒的に多いハズ。運命を分けてしまうその「一瞬」に出会わないように安全な登山をしていただきたいと思います。

北・中央・南の3つのアルプスと八ヶ岳、そして御岳山・浅間山を有する長野県。今年の1月1日~9月27日までに、長野県内の山岳事故による死者・行方不明者は合わせて37名にも上ります。ほぼ1週間に1名の割合で誰かが亡くなるか行方不明。遭難事故はどこかでほぼ毎日発生しているのが長野県の実情です。
毎日のように県警山岳救助隊は出動をし、休む日もなく救助ヘリは飛び立ち、医療に尽くす人も多く関係します。更には善意の手助けを行う山岳協会や見知らぬ登山者、山小屋の人。登山はそうした人間の支え合いで成り立っています。

さて、山岳事故の約半数(48%)が転倒や滑落によるとのデータがあります。事故に遭われた方でも、実は「登山には慣れた人だった」というケースが大変多いのではないかと考えていますが、いかがでしょう?
行動のスケジュール管理も、ルートの状況も、天気予報も十分に心得ているにもかかわらず、じゃあなぜ事故は起こるのか?
私ごとですが、先日の雨上がりに歩道のマンホールで滑って転んでしまいました。「恥ずかしかったけど、ケガしなくて良かった」というだけの食卓の話題が、ではこれが山だったとしたらどうでしょう?取り返しのつかない事態に直結していて、二度と同じ食卓には着けなくなっていたかもしれません。山での事故は、こうした些細な「一瞬」が生死を分けているだけではないでしょうか。

山には慣れているとは言え、早朝から荷物を背負って足元の悪い場所を行くわけです。どんな人でもバランスを崩すことはあるでしょうし、注意力が散漫になる時間帯もあります。山に行きたいばっかりに仕事を無理してきたとすれば疲労が溜っているかもしれません。標高2,000mを超えると気圧も下がり体調にも変化が現れます。
そうした中で突然、ガスが周囲を覆い視覚や方向感覚を失う、急に寒くなる、浮石を踏む、濡れた岩で靴を滑らす、思いがけずつまずく…。
その時の「一瞬」…は突然です。
登山ルートは多くの人の手によって、可能な限り安全が保たれるように努力されています。しかし登山経験を持つ人であろうとなかろうと、わずかな一瞬はいつ、誰に容赦なく訪れるか知れません。
登山の最終目的地はご自宅です。どうか安全に。いってらっしゃい!
                                画像場所/中央アルプス千畳敷カール

「ライチョウ復活作戦」その後

「北アルプスから中央アルプスに、冒険心溢れる雌ライチョウがやってきた!」これは以前の当ブログで紹介しました。
このライチョウの行動は環境省を動かし、中央アルプスで絶滅した「ライチョウの復活作戦」が始まったと記事を結んでいます。

さあ、その後はどうなったのでしょうか?
2019年からの繁殖作戦は確実に成果を上げており、既に中央アルプスでは数家族が生息しています。本年8月4日にはさらにその中から選抜された2家族が、2つの動物園にそれぞれ保護されたとの報道もありました。
一家族(4羽)は長野市の茶臼山動物園へ、もう一家族(6羽)は栃木県那須町の那須どうぶつ王国へとそれぞれ保護されたのです。
この目的は、動物園で雌を交換しながら更に繁殖させ、数羽を来年中に野生復帰させるという作戦の一環です。動物園への移送はヘリコプターといったVIP待遇を受け、流石に環境省の直轄事業といったところ。手厚くしてもらっています。
このニュースは那須動物園がある栃木県でも取り上げられており、佐藤園長のコメントからもピリッとした緊張感が伝わってきます。ー「同園の飼育員と獣医師計6人が24時間体制で飼育する。これからが正念場…動物園として培ってきたものを野生動物の保全につなげていきたい」―

さかのぼること2020年7月には、中央アルプスには10家族までの繁殖が確認されていました。そのうちの5家族をケージの中で保護してきましたが、更にその中から、今回の2家族が動物園行きに選ばれたというわけです。
動物園には行かなかった家族3組は既に放鳥されていますので、現在の中央アルプスでの生息数は不確定のためか公表されてはいませんが、8家族・40数羽程度がひっそりと暮らしているのではないでしょうか。山での自然繁殖に加えて、今回の動物園の繁殖組も加えた生息数の最終目標は80羽程度だそうで、これが作戦の全容です。

厳しい環境下に生きる野生のライチョウは、営巣がままならないままに6~8個を産卵してしまい、その中から孵化出来る割合は4~5個。雛になっても生存率は30%程度らしいですから、結局1羽しか生き残れないのです。平均寿命も4年程度であれば、やはり「絶滅危惧種」であり続けることに変わりはないでしょう。
どうか2度までも、中央アルプス一帯からライチョウが滅びてしまうことが起こりませんように…祈るばかりです。

環境省信越自然環境事務所
http://chubu.env.go.jp/shinetsu/index.html

鮎の友釣り

オリンピック、感動の連続でしたね!スポーツの力は偉大です。
さて伊那谷の風物詩、天竜川の「鮎の友釣り」が最盛期を迎えます。

昔から「友釣り」は大人に許された釣りと言えるでしょう。最大の理由は、「おとり鮎」を買わなければ釣りがスタートしないところにあります。買った「おとり鮎」に針をぶら下げて泳がせ、「コラ!俺の縄張りから出て行け!」と体当たりしてきた野鮎が針に引っ掛かったところを釣り上げる手法だからです。

「おとり鮎」の現状価格は一匹600円ほどで、通常2~3匹を購入しますが、今では上伊那郡内の「おとり店」は3店(辰野町・伊那市・中川村)しかないようです。昔は井戸が多かったせいでしょうか、[おとり鮎]と書かれた看板を数多く見かけた気がします。とは言っても、当時の子供にとっては、最初からお金がかかる釣りなどは出来るはずがありません。

そんな夏の土曜日、一人の同級生が「学校が終わった午後、一人で鮎の友釣りに行く」と言います。常に先を行く子供でしたが、まさかの大人宣言に一同は怯みます。「親アユ(オトリ鮎)はどうするのよ!」負けじと一人が食って掛りましたが、予想だにしないプランが返ってきたのです。
「テンカラ(毛針釣り)で、まずアカウオ(ウグイの伊那谷呼称)を釣ってから、それをオトリに使う」。
「ォ、オゥー…。」ダイナミックな発想に一同は驚きますが、子供たちの小さな脳内には大きな疑念がかけ巡っています。「…そんなの、ダメに決まっとるじゃねーかー!」気に食わないとばかりに言葉をぶつける者でも、ダメな理由を説明できるほどの知識はありませんでした。

さて、ウグイで鮎は釣れるのか? ウグイは「おとり鮎」の代替にはならないのです。食性が違う、生きる環境が違う、性格も異なるウグイを、鮎の縄張りへとコントロールするのは無理だと言われます。
子供らしい発想でしたが、思うままにチャレンジしてみた事が彼にとっては有意義でした。
当然ながら釣果の知らせは無く、子供なりの気遣いだったのか、周囲の誰かが尋ねることもないままに、その夏は昭和の伊那谷へと消えていきました。

鮎釣りの詳細は…【上伊那郡・天竜川漁業協同組合】
http://www1.inacatv.ne.jp/~tenryugawa-gyokyo/index.html

中古のキャンピングカー

夜が明けない早朝に、飯島町の「道の駅」を通過する時期がありました。いつからか週末になると、ある県外ナンバーの普通車が夜を明かしています。「車中泊」というやつでしょう。次の週末も、そしてまた次の週末も来ています。

キャンピングカーならばともかく、それが普通車ならば、本人は「車中泊」のつもりでも、地域住民にとっては単に「不審車」です。気味悪く感じるものですから、実は多くの人が監視していたと思います。
全国の「道の駅」で、「車中泊・お断り!」を掲げている理由は、この様に近隣住民への配慮も含まれていることを理解するべきでしょう。

車中泊があたかも「趣味」であるかの様に扱われる昨今にも、皆様はどうお考えでしょうか?
車中泊といった行為は災害時や、金銭的事情からやむを得ず行う行為であり、そして警察官からは「職務質問」を受けてしまう行為だと思うのですがどうでしょう?
「道の駅」はキャンプ場でもないのに、車内で「煮炊きや飲食」をしてそのまま「就寝」、「トイレは道の駅を使い放題」にして「一晩中そこにいる」行為が許されるとは思えません。
住民に嫌われながら一夜を過ごすよりも、駒ヶ根市内や周辺市町村のホテルや旅館を是非ご利用いただきたいと、切にお願いします。

さて前出の方はというと、この方は程なく古~いキャンピングカーを購入して変わらずに訪れるようになりました。たとえ古くても、本格キャンピングカーの威力は絶大で、「怪しい車中泊の人」から一転、「キャンピングカーで旅する人」に大変身してしまいます。
「不用心な田舎の家を狙った、プロの空き巣犯ではないのか?」などと疑ったりもしましたが、逆にウェルカムな気持ちが大きく芽生えます。
古くても本格的なキャンピングカーは高価ですし、コンビニへ行くのにも、あのキャンピングカー一台しか持っていないとしたら相当な覚悟です。そこまでして、毎週伊那谷に来たいという熱意を感じました。
疑いが一転すると、私のお得意な妄想パワーもフル回転をし始めます。
「カメラマンで、伊那谷の自然を撮影して歩いているのではないか?」「中央アルプスに魅了された登山愛好家か?」…。

キャンピングカーであってもオートキャンプ場等での停泊が正式なマナーですから、道の駅はやはり褒められるものではありません。ただ、あのキャンピングカーの方からは、何故か多くの方が、やがて取るであろう次の行動を予感したはずです。
あれから4年。もしかしたら、もう既に伊那谷のどこかで暮らしているかもしれません。

仮説!早太郎伝説

駒ヶ根市・光前寺に伝わる「霊犬・早太郎伝説」。表向きは「化け物退治」の伝承話ですが、これが実は「殺してはならぬ人物の暗殺事件簿」だったとしたらいかがですか?
当ブログでは仮説を立てることで、早太郎伝説を2時間ドラマ風に再現してみました。【あくまでもフィクション】なので、伝説を大切にする少年少女の夢を壊すつもりはありません。関係各位へも、誤解が及びませんようにお願いします。
梅雨の季節「こんな解釈もあるかもね…。」と鎌倉時代に思いを寄せていただければ幸いです。

まずはじめに。日本の伝承話に登場する「狒々(ひひ)」とは妖怪であり実在しません。実在する大型の猿「ヒヒ(英名:Baboonバブーン)」と同一視されている方が非常に多いのは大きな誤りです。バブーンにわざわざ和名を付ける際、妖怪の狒々にちなんで【ヒヒ】などと付けてしまったせいで起こっている混乱と過ちです。
猿のヒヒ(Baboon)は日本列島はおろか、中国大陸にさえも昔から生息せず、民俗学者・柳田國男も「狒々が大型の猿などではないことは明白である」「とにかく存在したであろう狒々の正体とは一体何なのか?」と述べています。

さて興味深いことに、早太郎伝説に似た伝承話が東北~九州までいくつか残されています。そしてこれらの伝説は共通するストーリで構成されているのです。
①なぜ似た話が点在? ②なぜ、旅の僧侶や定住しない山伏が村人を救う? ③なぜ、化け物退治に犬なのか?しかもわざわざ遠方から連れてくる ④退治した化け物の正体が実在しない妖怪「狒々」というオチはなぜなのか?

謎を解く伝承話が山形県に残されています。
早太郎伝説よりもさらに700年ほど古い時代の伝説によると…「都から送られてきた役人」が年貢の代わりに娘を差し出せと里の人々に強要します。旅の座頭がやってきて、「それは役人などではなく妖怪である」ことを見抜くと、甲斐の国(山梨県)から犬を連れてきます。犬が妖怪を嚙み殺した後にわかったのは、「都の役人」に化けていたのは「狸」だっという話です。
もうお気付きでしょう。登場人物を裏返して読み解くと、「早太郎伝説」は急にリアリティを増してきます。
そうです、仮説の答えは「狒々」=「都(幕府)の役人」=「退治できない権力者」です。

●仮説に基づいた、2時間ドラマ風「早太郎伝説」は以下になります。

 静岡県磐田市にあった「見付の村」には、「人身御供」の風習を悪用した犯罪行為に苦しんでいました。神の名を騙り「収穫を終えた祭の日には、若い娘を差し出せ」と村に強要する相手は「都からやってきた役人」なのです。断ればひどい年貢の取り立てやあらぬ罰を着せられ、村全体が疲弊することは明らかです。仕方なく差し出す娘の家を決定するに当たっては、神社の氏子総代や村の総代などの総意によって決定し、夜中のうちにその家へ白羽の矢を射っておくのです。

「もうこれ以上は我慢できない!」積年の恨みに溜まりかねた村の人々は、都の役人を殺してしまおうと決意します。しかし、村人が都の役人を殺したとなれば、村の多くの者が処刑されるでしょう。相談を受けた知恵のある「僧侶」は一案を持っていました。かつて同様にどこかの村で、悪行を行う役人に実行した暗殺手段があったことを知っていたからです。

僧侶はまず、存在しない「旅の僧侶」が来たことにしておき、一連の計画実行は旅の僧侶の仕業にします。次に僧侶は、遠く離れた信州の光前寺に出向き依頼をするのです、「早太郎なる者をお貸しくだされ」。
そうです、「早太郎」は犬などではありません。普段から寺に仕えて雑用などをしてはいますが、勢力を誇る寺社には剣や長刀の心得のある寺社侍がいたものです。早太郎もそうした一人でした。
しかし事は重要であり完全なる秘密裏に行わなくてはなりません。
光前寺を出発する時から、早太郎は自分はもはや一匹の「犬」である事に承知をし、名も「太郎」と言うだけで見付の村へ出向きます。

いよいよその晩、太郎なる者は役人および同行していたであろう二名ほどの侍を暗殺します。瀕死の傷を負いながらも信州まで戻った早太郎でしたが、刀傷は深く、住職へ報告をするやいなや死んでしまいます。哀れに思った住職は境内に墓を建てますが、それでも最後まで隠し通す必要から早太郎を「霊犬」として祀ります。

舞台となった見付村での真相は、「都の役人暗殺事件」なのですが、村人がお咎めを受けることはありませんでした。
日本各地で似た伝説が複数残されていることを考慮すると、都の役所にも恐らく真相はバレているのですが、送り込んだ行政官の悪事のあまりのひどさに対しては村人を処罰をしなかったのではないかと推測しています。
表面上も村人には罪などなく、殺したのはどこかから来た犬、殺されたのは妖怪狒々。一連を計画実行した旅の僧侶など行方知れず。都は…役人が失踪してしまったので新役人を派遣してこの件は完了。愛すべき鎌倉の世とはこうだったのかもしれません。

見付の村の人々は「太郎」なるスーパーヒーローを「悉平太郎(しっぺいたろう」と呼び、亡くなったことを知ると「霊犬神社」を建立して、最後まであくまでも犬としてお祀りしました。悉平とは「(悉)ことごとく、(平)平和をもたらした」と解釈できます。
光前寺には、見付の人々が早太郎に奉納した大般若経が実在しているそうです。

以上が、当ブログがお届けする2時間ドラマ風【仮説】早太郎伝説です。
新作歌舞伎の演目になりそうなストーリー性が満ちてはきませんか?

南割公園のハッチョウトンボ

夢中でカメラのシャッターを切る私に、背後から訪れた年配のご婦人が声をかけます。「トンボは何処にいるのでしょうか…?」
それもそのはずで、日本のトンボの中で最も小さく、全長が1円玉にスッポリと収まってしまう超小型のハッチョウトンボは、初めて訪れた人にとっては、慣れるまでは目に入らないものなのです。
「ここにいますよ。ほら、いっぱい…。」
どなたも「赤とんぼ」が大きさの基準なものですから、初めて見つけた時には本当に驚きます。

この際、「赤とんぼ」の正式名を調べてみようと思い付きましたが、
「トンボ科」の、「アカネ属」…まではわかりましたが、「アカネ属」にはさらに10何種類にも及ぶトンボがいることを知りました。子供の頃に田んぼの上空を覆っていた赤とんぼ達は、実は10何種類もが混在していたという2重の驚きです。

子供とは随分と残酷な生き物なわけで、赤トンボを捕まえては尻尾をちぎってはみたり、羽をむしってはみたりと、さすがに「閻魔様」もあの世に行くゲートの前では、そのことを一旦指摘してくるだろうなと、今から怯えています。
しかし、ハッチョウトンボにはそんな残酷行為は厳禁。なぜなら、駒ヶ根市の「市の昆虫」に指定されているからです。それほどまでに、全国各地で絶滅危惧種に指定されている大切な生物なのです。

漢字で書くと「八丁蜻蛉」。由来となる八丁とは何ぞや?ですが、「八丁目付近でのみ見られる蜻蛉(トンボ)である」という、昔の偉い学者先生の検分からそう名付けられたものだと伺います。
その八丁目とは、名古屋市のどこかの八丁目らしいのですが、それほどまでに当時から既に貴重な存在だったということでしょう。

南割の地に棲みついた小さなトンボは「ハッチョウトンボを育む会」のメンバーに大切に守られ、市営野球場の建設とともに公園整備された一角に安住の棲み処を与えらえ、2004年7月「駒ヶ根市の昆虫指定」を受けて駒ヶ根市教育委員会の保護下に置かれることとなりました。
8月上旬までの短い期間ですが、精いっぱいに生きる様子をご覧になってみませんか?

 

200人の赤ちゃんたちへ

“日本の少子化に歯止めがかからない”
皆様もご承知の通りです。

結婚していない中高年男性が多いことも確かですし、駒ヶ根や近隣市町村で抱える切実な問題だと思いますが、少子化に影響するほどの割合にまで達するとも思えません。関連はあるものの「お見合い制度」といった別の問題でしょう。
そしてほとんどの人が遅かれ早かれ結婚して、2人くらいは子供を儲けています。
つまり
少子化問題とは、「もう一人、産んでもらえませんかね?」という問題なのであれば、収入、住環境…あれやこれやの問題が複雑に絡みあい「とても無理!」となってしまうのだと思います。
厚生労働省のグラフを見ても、好景気に沸いたバブル期(1985年前後)でさえも出生数は増えていません。年収が右肩上がりだったバブル期でさえ下がり続けた出生数。「3人目には1,000万円の支給案」を言う人がいますが、物事は「一時金」などの単純な問題ではなさそうです。

さて先日、大きな発表結果がありました。
2020年(1月~12月)の駒ヶ根市の出生数は200人。さらにこれは前年の234人からもさらに大きく減少したそうです。
駒ヶ根市役所も衝撃的な結果を受けて、「何もしない訳にはいかない」とばかりに、令和3年度から令和5年度の3年間を集中的に結婚・出産・子育て施策の充実化に取り組む全力応援期間とする『子育て全力応援』を宣言しました。
ざっくりと申し上げますと①行政サ―ビスの格上げ(結婚のお世話から支援する)②出来る範囲での費用補助を行うというものです。必要とされる方は積極的にご相談してください。

赤ちゃんが200人しか産まれなかったとなると、6年後の中沢小学校の新入生は割合から計算すると12名になります。東伊那小学校は14人。
全校児童数も70名を下回っていく可能性が高く、何よりも子供たちの為に、小・中学校の統廃合も考えてあげなければいけません。

一方で、駒ヶ根市の死亡者数を調べてみましたら、毎年400人ほどでした。つまり、駒ヶ根市は純人口が毎年200人づつ減少しています。
20年後に、昨年産まれた200人が大人になった駒ヶ根は人口25,000人ほどのほんの小さな街。「負の遺産」だけを可愛い200人に押し付けて去っていかないように、小さくても誇りある「駒ヶ根」を譲り渡す使命が我々には残されています。

中沢の花桃

夢をつなぐ「聖火リレー・伊那会場」

東京オリンピックに向けて、3月25日からは聖火ランナーが全国を走ります。
長野県内は4月1日~2日の2日間にかけて14の地域で行われ、駒ヶ根では4月2日に行われる伊那市の会場が該当します。伊那会場では、伊那市街地の直線2.4㎞を4名のランナーが聖火を繋ぎます。

「なかなか良い人選をしたなあ。」聖火ランナーには皆様がこんな感想をお持ちではないでしょうか?特に伊那市と駒ヶ根市から選抜された2人を見て、この選考判断たるや、なかなかのお見事と言わざるを得ません。これぞ夢をつなぐ聖火リレーです。

伊那市選出は、 “幻のモスクワオリンピック代表” ご存じ長距離ランナー「伊藤国光」さん。上伊那農業高校出身。昔は上伊那の優秀な中学生ランナーは上伊那農業高校に入学したものですが、そんな歴史のアイコンとして「伊藤国光」さんの存在があります。近年でも上農の歴史は脈々と受け継がれており、山梨学院大学に進学した「桃澤大祐」君(中川村出身)が「箱根駅伝・山下りの6区」の大役を3年連続で務めました。

「伊藤国光」選手は小柄で、しかも苦しくなると懸命に首を振りながら走る姿が印象的でしたから、その記憶が浮かぶ長野県民もきっと多いはず。『世界最高のランナー』と言われながらも、何故かマラソンでは一度も優勝できなかった無冠の帝王でもありました。

そして駒ヶ根市選出は「伊藤大志」君。彼の名は覚えておいて下さい。将来を有望視されている長距離ランナーです。駒ヶ根市赤穂中学校から佐久長聖高校へ進学し、この春からは早稲田大学に進学します。
長距離ランナーとしての才能は中学生の頃から発揮しており、出場したジュニアオリンピックでは3,000mで3位の成績を上げて陸上の名門・佐久長聖高校へ進学。高校では5,000mで歴代2位の好タイムを叩き出し、全国トップクラスのランナーとして既に知られた存在です。まずは「箱根駅伝」、恐らく数年間は箱根ランナーとしての雄姿を見せてくれることでしょう。

「幻」となって消えてしまった元オリンピック選手にとっては、41年もの時を経て形を変えたオリンピック参加になりました。伊藤国光さんから伊藤大志君には『君は日本のオリンピック選手になれ!』とのエールと共にオリンピックの炎が引き継がれます。
新旧ランナーによる、オリンピックの夢をつなぐリレー。
4月2日は間もなくやってきます。

画像は「NHKアーカイブス」より https://www.nhk.or.jp/archives/
(12番カネボウ選手時代の伊藤国光選手/宗選手と瀬古選手と共に)

感謝の祈り

昨年の春頃でしたでしょうか。佐久へ出張に向かう途中の、とある街道沿いでの光景です。
信号待ちで停車した交差点には老婆が立っていて、信号を渡るわけでもなく、大きな買い物袋を手に抱えたまま、何やらどこかに向かって合掌をしている光景に出くわしました。
信仰心深く祈りを捧げる方角の50m先には、何百年とそこに存在しているであろう街道沿いの「お堂」が現れます。先ほどの交差点からお堂へは、老婆にとっては長い距離です。重い買い物袋を提げたままで往来の激しい国道を渡り、また引き返して来なくてはならないのです。
きっといつもこうして、交差点を渡ることなくしばし合掌を捧げた後に、お堂とは反対方向へと帰っていくのでしょう。

「きっと一人暮らしなのだろう」とは察しがつくものです。
しかしその安らかな敬虔な祈りの所作には、お願い事などでは決して無い祈り、何かに深く「感謝」している祈りのみが発するオーラと美しさがありました。
一人暮らしを嘆くわけでもなく、買い物に歩く辛さを恨むわけでもなく。長生きに感謝しているのか、はたまた離れて暮らす孫の就職が決まったことに感謝しているのか…とにかく『感謝の祈り』だということは強く伝わってくる光景でした。

2度目の緊急事態宣言の今、人々の置かれる境遇が厳しさを増しています。するとどうしても他人を非難したり、人の責任にしたり、他人の豊かさを恨んだり、全体主義思想が台頭したりしてきます。
明日を生きられなくなり、自殺してしまうニュースも耳に入ります。
あの日見かけた信仰心溢れる老婆は、今の私たちに何を語りかけるでしょう?
突然、私の脳裏にあの老婆が現れたのは「私を真似てみなさい」と教えに来てくれたのかもしれません。皆さんも一緒にやってみませんか?
今日できる感謝はたくさんあります。
大切な家族を病気から救ってくれてありがとう。
今日も三度の食事が出来てありがとう。
今日もアルプスがきれいだね、ありがとう。
駒ヶ根に暮らせてありがとう。
立春を越えました。春は必ず訪れます。