(完結編)UFOと火山、そして諏訪大社

「UFOと関係が深いとされる火山どうしを結ぶと、きれいな二等辺三角形を形成する。その三角形での出来事だったのか?」といった内容が、前回のブログでした。
UFOと火山との関係から始めた考察でしたが、実は思いもよらない「もう一つ」の事実も示しています。
今回は完結編。「諏訪大社と火山の関係」と言う内容です。
伊那谷は諏訪大社の御神域でもありますのでお付き合い願います。

そもそも二等辺三角形が地表に現れること自体、数学の意思・測量の意思が働いていやしないだろうか?と考えたりもしましたが、こればかりは神の領域・地球の意思なので判別は付きません。
ところが、興味深いことを見つけています。御岳山と八ヶ岳の火山どうしを結んだライン上には、確かな「神」の存在があることです。

御岳山は記憶にも新しい噴火の山ですが、一方の八ヶ岳も噴火で山頂が崩壊してしまう以前は、富士山よりも標高が高かったという事実も留めておいてください。
そして、御岳山と八ヶ岳を結んだ火山のラインを注意深く見てみると、諏訪大社のご神体とされる「守屋山」が存在しています。

余談ですが、「モリヤ」とは、旧約聖書にある「アブラハムが息子・イサクの首を神に奉げようとした場所」こそが「モリヤ山」であり、イスラエルの支族が諏訪にやってきた後、古代イスラエルのモリヤ山を、諏訪に置き換えたのが「守屋山」であるとも言われています。
「固い信仰心は、神にも伝わる。」その記述が旧約聖書での「モリヤ山」での出来事であり、アブラハムの信仰の確かさを見た神は、イサクの首を切ることを止めさせ、イサクの代わりに羊が生贄となったという記述に由来するものが、諏訪大社においては、鹿の首を神様に捧げる神事として再現されている…という説を聞いたことがあります。
日本人の4割に、中東由来のDNAが含まれている事も相まって、
「日ユ同祖論」の根拠のひとつに加えられている話です。


どうも、諏訪大社と火山には因果関係がありそうです。
寺田寅彦(物理学者・旧東京帝国大学教授)の仮説。「日本神話に登場する須佐之男命(スサノオ)の正体とは、火山の事ではないのか?」を当てはめれば合点がいきます。
火山の噴火は日本列島における地震と並ぶ最大の天災。天照大御神(アマテラス)は、暴れん坊のスサノオのせいで「天の岩戸」に隠れてしまったという神話は、「火山の噴火」による、アマテラスの岩戸での避難生活ではなかったのかとも考えれば現実味を得られます。

いずれにせよ、「スサノオ」は出雲系(=諏訪の)祖神であり、「火山」を司った神であるとすれば、2つの火山を遥拝し、怒りを鎮める場所として、ライン上にある守屋山を、諏訪の「御神体」としてお祀りしたようにも思えます。

さらに古代の諏訪の人は、この地が大断層(中央構造線と糸魚川静岡構造線)の交差点であることも何故かわかっていて、作家「戸矢 学」の言うように、御神木を神社の四隅に打ち付けて、地中に潜む「神の怒り」を封じ込めようとした「祈り」が「御柱祭」なのかもしれません。

「甲府事件」と伊那谷UFOの考察から始まった話は、「火山」がファクターとなり「諏訪大社」にまで及びました。
いずれも、当ブログによる誠に勝手な考察であることをお許し下さい。
古代史は謎に満ち溢れています。
2回に渡るヲタ話、お付き合いくださいましてありがとうございました。

諏訪大社前宮 一之御柱

甲府事件と伊那谷のUFO

甲府事件と言っても凶悪な殺人事件などではありません。ましてや甲府の出来事が、駒ヶ根とどう関係があるのか?と思われるでしょう。
それが案外、関係ないとは言えそうもない独自の研究考察と体験談。
今回のブログは、1975年に甲府で起きた「UFO・宇宙人遭遇事件」と、1978年に伊那谷で筆者が目撃した謎の飛行物体。この2つに結びつく真実はあるのか!?とする、真面目なUFO考察のお話しです。

始めに甲府事件の概略です。
今から50年前になろうとする1975年の夕刻。夕食前なのに、いつまでも外で遊んでいた従弟の2人組小学生。
彼らの近くのぶどう畑に、オレンジ色に発光するUFOが着陸しました。近くまで寄ってみると、小学生たちと同じ位の身長をした宇宙人2人が乗っていて、何と一人は外へ出てきて「クチュクチュクチュ…」と声を発したのです。
驚いて腰を抜かしてしまったA君をB君が背負って隣のお堂まで避難します。そして夕飯の支度をする母親へと助けを求めました。
駆け付けた母親たちも、オレンジ色に発光するUFOが飛び去るのを目撃します。
オレンジの光は「南アルプス方向」へと飛び去り、さらにその光は清掃工場の管理人や別の同級生も、同時刻にそれぞれの場所から目撃していました。
複数の目撃者がオレンジのUFOを目撃したこと以上に、宇宙人に遭遇した唯一のUFO事件として「甲府事件」はとても有名です。

さて、なぜ甲府だったのか?と考えます。
推測の一つとして、UFO研究家がよく口にする「UFOと火山は密接な関係があるらしい」という発言…。皆さん、Googleマップを開いて、火山である八ヶ岳(硫黄岳)と富士山を直線で結んでみてください。直線のライン上に「甲府事件」の現場があります。
また、注目すべきは「南アルプスの方角へ飛んで行った」という目撃談。
南アルプス・中央アルプス共に火山はありませんから、事件現場から南の火山は御岳山。そして、御岳山=八ヶ岳(硫黄岳)=富士山を結ぶと、それはきれいな二等辺三角形を形成し、駒ヶ根市はおろか、上伊那郡全域をカバーしています(下図参照)。

* * *

さて、時は甲府事件から3年後の1978年・伊那谷の夏。
その日は朝から気温が高く、夏休みだった筆者は学校のプールへと出かけたのでした。
あいにく同級生には出会えず、同じ部活仲間のT君とプ―ル脇のコンクリートで甲羅干しをしていた時の事です。
「あれ何?」とT君は私にも見るように促します。「あ、本当だ…」
その後の約20秒間の景色は今でも鮮明に記憶に焼き付いています。
銀色の浮遊する物体一つが、天竜川西岸の低い上空をスーッと北上してきます。位置的には、小渋川が天竜川に合流する周辺上空のような気がします。
当時に伊那谷を飛来していた爆音・銀色の自衛隊機「F-104スターファイター」とは明らかに違います。
音を発せず静かに、しかも空気抵抗が無いかの様に飛んでいるのが不思議でした。間もなく近くまで来れば、全体像が分かるだろうと思いながら見ていたその進路上には、小さな雲の塊があります。
物体は雲に入り、抜け出せば、さあいよいよその姿を確かめられる…と静かな気持ちで待ち受けました。が、しかし飛行物体は雲から出てこないのです。何事も無かったかのように小さな雲はそこにあり続け、物体は消えてしまいました。
プールの様子を見渡しましたが、キャッキャッと騒ぐ中学生以外、我々と同じものを見て口を開けている者などはいませんでした。

甲府事件から間もなく50年。当時の小学生も還暦です。「ウソ発見器」にまでかけられ、マスコミにおもちゃにされてすっかり口を閉ざしてしまった少年が、「あれは本当の出来事だ」と、還暦を契機に発言し始めたことを知り、筆者が中学生の頃に見た謎のアレも、甲府事件と関係があったのかもしれないなぁ…と思い始めた今日この頃です。

 

天下の糸平(てんかのいとへい)

「郷土の隠れた偉人」と称されるように、生まれ故郷の駒ヶ根でさえも多くの人がその存在を知りません。歴史の表舞台に刻まれなかったのはなぜでしょうか?
今回のブログは、当社の主観で「天下の糸平」に迫ります。あくまでも一考察としてご理解いただき、歴史認識へのご批判は寛容にお許し下さい。

結論から言えば、「天下の糸平」こと田中平八(たなかへいはち)は、その素性が「相場師」であったことが、表舞台から疎まれた理由と考えています。

相場師としてのDNAは生まれ持ったものだったかもしれません。
1834年、伊那郡赤須村(現在の駒ヶ根市・駒ヶ根郵便局のあたり)にて、平八(幼名:釜吉)は生まれました。資産家だった生家は相場に失敗して没落します。そのため、12歳頃には飯田の魚屋へ丁稚奉公に出されました。

1853年に結婚。飯田ご城下の染物屋・田中家の婿養子に入りますが、今度は自身が米相場で大失敗。

江戸へ出たのが幕末の混乱期。倒幕運動側の尊王攘夷運動に傾倒しますが投獄。出獄後の生きる道はやはり相場だったようで、横浜へ出ます。
ちょうど生糸(シルク)の輸出に沸き始めた横浜港。「糸屋平八商店」を開業して、ここからの人生が大成功を収めるのです。
生糸や洋銀相場で財を成す勢いは「天下の糸平」の異名を取り、横浜金穀相場会所、洋銀相場会所を設立するなどして、相場の世界で「天下人」となったのです。
しかし、あろうことか外国人商人との貿易を巡り、偽札を刷って見せ金としたことが露見。これをもって横浜の商売からは手を引く羽目になりました。

東京へと移っても相場の天下人は健在。東京株式取引所や東京米穀取引所を設立。ここでも大儲けをしたとされています。
いかがでしょう?実業家と言うよりは、平八はあくまでも「相場」に生きた人だとわかります。

一つのエピソード。故郷である飯田の農家から生糸を買い入れた際の、平八の手口が知られています。
まず、3百両(現在の3千万円)の手付金を持って飯田に帰り、10倍の3千両(3億円)分の生糸を仕入れます。横浜に持ち帰った生糸は、さらに10倍の3万両以上(30億円以上)で外国商社に売り渡したという大儲け話です。
3千万円のキャッシュで、30億円の商売をする傑出さには恐れ入りますが、郷土の為に、郷土の農業振興に尽力したとの印象が持てないのは、私共だけでしょうか。
飯田警察署入り口には「天下の糸平」と書かれた顕彰碑がありますが、飯田の人の多くが石碑の意味を知らないことが、真実を物語っている気がします。

さて、こうした天下人の財力は、どこに注がれたのでしょう?
それは他の財界人の様な鉄道事業への投資でもなければ、日本美術品の保護収集でもありません。
吉原から「お倉」という女性を身請けしますが、お倉には横浜の大料亭「富貴楼」を任せます。富貴楼は料亭政治の先駆けとなり、伊藤博文、大久保利通、山形有朋、大隈重信などといった明治の”表舞台”の偉人が足しげく通う一方、岩崎弥太郎、渋沢栄一といった財界人や市川團十郎などの芸能人も通うほどの一流の社交場でした。

平八は討幕派でしたから、明治の偉人達とは人脈形成でも運が味方したように思います。莫大な財産は、これらの表舞台の政治家たちに、裏の舞台から還流したであろうことは想像に難くありません。その裏舞台が「富貴楼」であり、莫大な財力は、平八をフィクサーとしての立場へ擁立したのでしょう。
素性は「相場師」であり、しかも「無学」。
明治の「フィクサー」は歴史の中にひっそりと収まることの方が、むしろ必然だったのかもしれません。それが当ブログ的考察です。

1884年、平八は肺結核により熱海療養中に51歳で没します。
想像するに、多くの人から嫌われ、嫉まれた人生だったことでしょう。
しかし、他人の目などお構いなしに、巨万の財を得る為に生き、そしてその財は近代国家を目指す明治という時代へ消えていった。

東京墨田区向島「木母寺」に建てられた墓碑には、伊藤博文の筆で「天下之糸平」と刻まれました。天下とは「天下の相場師」…ではなく、「天下の金持ち」という意味だったのではないでしょうか?。しかしその金は、「明治近代国家に役立ったぞ!」そんな伊藤博文の心情を読み取れる碑文字であると思います。

天下の糸平出生地の碑(駒ヶ根郵便局北口)

アクアで我慢する若者~新年度の始まり~

とある工場の応接室は使用中だったので、食堂に通されました。
食堂では、遅い昼食を取る社員同士の会話が聞こえます。
「クルマ替えたの?」
「…ええ。」
二十歳そこそこの若者がクルマを購入したことに、年上の同僚が食いつきますが、若者にとっては乗りの悪い話題のようです。
「狭くない?プリウスの方が良かったじゃん!」
なんと若いのに、小型ハイブリッド車「アクア」を買ったようです。
「…フェアレディZじゃねーのかよっ!」私は心の中でツッコミを入れています。昭和ならば「スカイライン」や「Z」、「セリカ」といった車種が、この年齢の定番だったからです。

若者のクルマ離れはここまで深刻なのか!そう感じました。
彼にとってのクルマは、通勤道具でしかなければそれまでの事です。
わずかな給料と、将来が見出せない社会生活では、燃費の良いクルマこそが最優先なことも理解できます。SUVでもなくてもスノボーへは行けますし、高性能なスポーツカーである必要もありません。でも若者には、若者らしいクルマ選びがあるはずだと思うのです。そして何よりも心に引っかかったのは、受け答えの面倒くささに混じった「寂しさ」があったことです。

ふとっ、後日になってからある想いが脳裏を横切ります。
「彼だって本心は、フェアレディZやSUVが欲しかったのではないか?」
それなのに、『欲望を押し殺して生きる術』が身に付いてしまって、そんな育ち方をしてきてしまったのではないだろうか?…と。

考えても見れば、今の二十代は、生まれた時からずっと不景気な日本で育ちました。どの家庭も、苦しい経済状況の中で、やっとの思いで子育をしてきたはずです。どうにか大学までは卒業しても、就職後に自身の借り入れ奨学金の返済で四苦八苦している30代独身が五万といます。

若者が「夢や希望」を持てないままの社会で良い訳がありません。欲望を押し殺し、明日をも知れない人生を若者に強いる社会ではいけません。さあ、新年度の始まりです。若者が希望の持てる社会に向かいますように。

駒ヶ根市中沢「穴山の桜」

鯉食文化の衰退・伊那谷

鯉(コイ)は体格も大きく貴重なタンパク源として、日本はもちろん、東アジア~東南アジアの広い範囲で食べられています。
内陸である長野県・伊那谷においても、河川や湖沼に生息する淡水魚の鯉は「高級食材」として、祝儀の席や宴会のメイン料理として重宝されてきました。

かつては、母屋の脇に池がある農家も多く、野菜を洗ったり農具を洗ったりしていましたが、必ず池の中には食用の鯉を泳がせていたものです。大切なお客様を迎えると、池の鯉を捌いて砂糖醤油で煮た「うま煮」や、刺身「鯉のあらい」に料理して振る舞った記憶が残っています。
甘く煮たはずの「うま煮」であっても、当時の子供にとっては泥臭さや腹ワタの苦さ、何よりも大量の小骨があって苦手でしたが、一方で都会からのお客様にとっては「田舎の味」「信州と言えばコレ」ということで好評でした。

伊那谷で鯉を食べる機会が急激に減少したことは、養鯉業も仕入れ経路も変容したであろうことは容易に想像できます。「鯉のうま煮」を宴会料理に加えて欲しいと、料理店にリクエストすると「1,500円追加になりますが…いかがいたしましょう?」と言われたのが、既に20年前の話。
別の料理屋の店主も擁護するように言いました。「…お客から鯉のうま煮も付けろなどと言われると、昔と違って、飯田市のもっと遠くの下伊那の養殖業者に頼まざるを得ず、煮たやつを持ってくれば一切れ1,000円だと言う。店で煮直してから出すと1,500円だって合わない…」

江戸時代からの養鯉が有名で、将軍にも献上された「佐久鯉」で有名な佐久地方でも、鯉の食用需要は減り、養鯉業は衰退したと聞きます。新たな商品開発も行われているそうですが、小骨を大量に含む鯉の身を考えると、調理法・メニューの幅の広さに於いて、人気の養殖魚「信州サーモン」とは比ぶべくもありません。

数年に一度、小骨を取り除きながら、酒を飲みながら時間をかけてゆっくり食べるからこそ「鯉のうま煮」は貴重であり高級であったのでしょう。一方で食する機会がそんな程度だからこそ、食用養鯉業は衰退し、食文化が衰退する運命を辿ってしまったのが現状です。
冬から春にかけての「今」が鯉の旬だそうですが、もはや伊那谷では簡単に食べられる食材ではありません。

画像/あけびさん

 

 

6時のジョッキー

男女問わず、日本各地で60歳前後の「長野県出身者」がいたら、次のように問いかけてみてください。
「6時の?」「…?」「6時の?…」。おそらく、その長野県出身者はこう答えるでしょう「ジョ…ジョ、ジョッキー!」。
そう、合言葉は「6時のジョッキー」。

(誤りじゃなければ)それは1976年(昭和51年)から始まったNHK-FM長野放送局の「6時のジョッキー」というローカル音楽番組です。当時に思春期だった=今の60歳前後の中高年たちは、こぞってラジカセに耳を当てて聴いていたものです。

長野県の放送電波は決して良好ではありません。山岳地域であることと、駒ヶ根等の南信州からすれば、放送局は遥か遠い長野市にあります。中継局をいくつ経由してもなお、ラジオを持って部屋中をうろうろしながら、聞こえる場所を求めていた当時を想い出します。
しかし、時代は「ラジカセ」ブームが始まります。カセットテープレコーダーにラジオチューナーが内蔵された一体型の夢の様な機器、これがラジカセです。これが地方にも普及し、思春期を迎えて「青春時代」に突入した若者は、自分専用のラジカセが買い与えられるようになった時代が1975年頃でした。

ところが前述の通り、AMラジオ番組では電波の入りも悪く、貴重なカセットテープに曲を録音するには勿体ない。FM放送は音のクリアさは別格でしたが、クラシック音楽や邦楽ばかりのNHK-FMでは、長野県の若者は欲求が満たされないのも当然です。
そこへ、ストンッ!と始まったのが「6時のジョッキー」でした。
クリアな音で、念願の歌謡曲やニューミュージック、フォークソングの数々が丸々一曲流れます。お気に入りの曲が流れる度に「録音」と「再生」の2つのボタンを同時にガチャン!と押して録音開始!ああ、これぞ青春のラジカセといった心持ちでした。

そして、日替わりのディスクジョッキーの女性たちの存在も番組が人気の理由でした。「公募」で選ばれた「一般」の女性たちが、リクエストはがきを淡々と読み上げる飾らなさと、番組進行のシンプルな美しさ。どこぞの「FMなんちゃら」のように、曲紹介に流ちょうな英語も使わず、受け狙いのトークなどは決して話さない清廉ぶり。その様子は神秘さを秘めていくのです。
SNSなどで顔写真が拡散されることもない古き時代に、結局最後まで容姿が公表されることも無く、想像するままに、DJ最終日を涙で終えていく散り際のはかなさ、美しさ。
NHKならではの、CMが入らない澄みやかさと相まって、シンプルに美しい45分間の毎日でした。


6時のジョッキーテーマ曲「Feel So Good/今は亡きチャック・マンジョーネ」
旧6時のジョッキーテーマ曲「ペーパーマシェ/フロイド・クレイマー」はこちら

36災害と伊藤市政2期目

能登半島の地震は、突然に多くの人々の命を奪い、救援に向かおうとする海保職員の命までも奪いました。神様の意思がどこにあるのだろうか?と考えます。

地表が4メートルも隆起した能登半島西海を、地元の金沢大学の先生が訪れました。辛さを耐えて述べる学者としての見解は、日本列島に暮らす日本人に向けられた普遍的なメッセージに聞こえます。
『今の能登半島は、地震活動を繰り返しながらちょっとずつちょっとずつ高くなった土地なのです。(辛く悲しい)今回の地震も特別なことではなく、長い能登半島の自然の営みのひとつなのです』ー

地震学において、日本のどこが危険度が高いかなどという地図の色分けは全く意味を持たないことはもう明らかです。日本列島は地震と噴火を繰り返してきた歴史であり、それは子や孫の代も続く事なのです。
その度に日本人は助け合い、次に備えて叡智を絞ってきた。どうやら日本人とは、その繰り返しのようです。

昭和36年、駒ヶ根市も周辺の町や村ともども大災害を経験しました。
昔の事とは言わせません。その時には130名以上の人が亡くなったのです。子供が土砂の生き埋めになったり、子供を抱いた母親が家の中で圧死したり、小学生を救い出そうと飛び込んだ隣家の夫婦もろとも土石流が押し流したのです。
700年に及ぶ歴史に終止符を打ち、集団移住を余儀なくされた四徳の人々でしたが、なお移住先でも困難な苦労、言われなき仕打ちを受けたことを知っている市民も多いはずです。
出動してきた自衛隊に対しても、当時は塩対応だったと聞き及びます。

1月21日の駒ヶ根市長選挙を終え、現職の伊藤市長が2期目の当選を果たされました。防災の必要性は十分に認識されているとはいえ、市が予算を費やして出来る防災対策には限界があるやもしれません。
ならば、駒ヶ根市民のソフト面の防災意識を、さらに2ランク高める施策は実現可能な気がします。
「こうなった時にはこうしよう」「そうなる前にこうしておこう」「こうしておかないと、災害時には大変だぞ」「災害時活用オフロードバイク登録制度」「災害用太田切川水汲み場の整備」等々、市民の一人一人が防災を考え、知恵を出し合い防災レベルを高めることは出来そうな気がします。結局は自分への備えであり災害関連死を防ぐ予防策でもあります。防災意識の高い駒ヶ根市民へ、市長の強いリーダーシップを期待します。

画像は長野県ホームページ「地図から読み取れる防災情報」より

スターバックスが不要な駒ヶ根づくり「市長選②」

駒ヶ根市長選挙は、一ヶ月後の1月21日に迫りました。
今や選挙は変わり始めています。18歳以上に選挙権が与えられた変化は確実に出ており、必然的に、投票行動を左右する役割をSNSが大きく担っているからです。
さて、この市長選において、現代ツールが優位に作用するのはどちらの陣営でしょうか?

ただでさえ、駒ヶ根市には年間200人の子供しか生まれません。2020年に32,000人だった人口は、2040年には26,000人にまで減少すると予想されています。驚愕な人口減少のその先も、いったい駒ヶ根市は市政を維持できるのでしょうか?
危機的な状況へ向かう市政にあって、未来を託せるリーダー選びはとても重要なのです。

今後は、市民の意識改革も必要になります。
例えば、「駒ヶ根にはスターバックスがない…」そんな嘆きを多く耳にします。しかし、全国チェーンが出店できない田舎度数の高さは、今も昔もこの先も変わりはしません。にもかかわらず、昭和の頃同様に他の街と同じである事を望み、そうならないことを嘆いていれば、早晩に駒ヶ根は「オワコン」を迎えます。
「…コーヒーチェーン店なんか無くたってさあ、駒ヶ根には素敵な店がいっぱいあるじゃん!」本来の街の姿とはそれが理想であり、市民こそが「駒ヶ根らしさ」を追求する美意識に変革すれば、街は再生へと歩み始めるでしょう。

例えば、大自然を有する八ヶ岳南麓一帯にもスターバックスなどありません。しかし代わりに存在するのは、魅力あふれるカフェやレストラン。都会人たちは、帰途の大渋滞を承知で、それらを目指してやって来るのです。
ロケーションに優る駒ヶ根がそうならないのはなぜか?
名古屋からも近いのに、名古屋のシェフやオーナー、銘店が駒ヶ根に出店しないのはなぜか?
「駒ヶ根に入ると、何か雰囲気違うね!」なぜ、そんな街づくりをしてこなかったのか?それを考え、それを政治にも問いかけるべきです。

この市長選から、いよいよネット世代が動かす選挙になることを期待します。若者よ、君たちが選挙を動かし、新しい駒ヶ根を創れ!

photo:5月の中央アルプス開山祭(駒ヶ根市観光協会Facebookより)
普通にこんな行事があるなんて、駒ヶ根ってスペシャルな街なのです。

 

駒ヶ根はオワコンか?「動き始めた市長選」

駒ヶ根市長選の投開票が、2024年1月21日に行われます。
二期連続トップ当選を果たす市議・松崎剛也氏(48)が8月に出馬を表明。早々に周知を図る戦略に出る中、再選を目指す現職の伊藤祐三氏(63)も、9月下旬になってから出馬を表明しました。
今、多くの市民が、街の未来に希望を抱けない状況です。果たして駒ヶ根は、このまま「オワコン」への道を歩んでしまうのでしょうか?

2020年にスタートした伊藤市政でしたが、任期のほぼ全てがコロナ禍であった事は不運であり、ひどく同情します。
おまけに、駒ヶ根市の財政再建問題は深刻なだけに、カネがない市政で腕を振るえと言われても、土台無理な話であっただろうことも理解しています。
一方で、経営者仲間からは、「市長はどんな街にしたいのか?」という声を多く耳にしました。「俺は駒ヶ根をこうしたいんだよ !」といった「熱量」を、せめて受け取りたかったのだろうと思います。経営者たちは、市長が目指す方向を共に向きたかった。市長が目指す駒ヶ根の未来像を、共に創造したかったのでしょう。
選挙選では、現職は大変優位な立場にあります。アドバンテージを活かして、2期目に向けた「伊藤流/駒ヶ根ビジョン」をお示しいただけることを期待しています。

一方、市議から市長への転身を狙う松崎剛也氏。初当選時から二期連続トップ当選を果たすことからも、「将来の市長候補」と囁かれていました。「ゴーヤ君」と慕われる人気ぶりと、48歳の若さと、溢れる熱量は魅力的です。
彼の演劇で培った経歴は、ひょっとすると市政に化学反応を生み出すかもしれません。瀕死の駒ヶ根にとっては、彼の芸能力が特効薬になる可能性があるという推測です。
民衆が弱っている時の芸能力とは大変なもので、空気を暖め、場を明るくし、高揚感を高め、ひいては明日への活力を与えます。
駒ヶ根市は閉塞感が支配して若者の活力を奪い、「駒ヶ根オワタ…」などと希望を奪い取っています。今の駒ヶ根市長にふさわしい人物像とは、市長自らが市民の中心で輝きを放つ、芸能力を持った人物が効果的かもしれません。
駒ヶ根市民の深層心理には、かつての中原市長のような、若い市長の再来を待ち望む気配があることも、選挙戦を左右する注目点と思います。

どちらが市長になるにせよ、輪の中心には一生懸命盛り上げようとする市長がいて、遠巻きの市民も「まあ、じゃあ、俺らもやってみるか!」といった「駒ヶ根モデル」の再来がなければ、この街は本当に「オワコン」になってしまう気がします。

photo: 2万年もの間、駒ヶ根を見守る千畳敷カール。

山岳救助の有料化を考える

10月7日、中央アルプス山頂付近は霧氷で覆われたとのニュース。急速に冬山へと向かいながら登山シーズンは間もなく終わりを迎えます。
10月10日までの長野県内の山岳遭難は245件発生。死者29人は昨年を上回っています。

さて9月14日、中央アルプス木曽駒ケ岳の山頂付近(標高約2,900m)での救助活動です。神奈川県の無職の男性(67)が「疲労のため動けなくなった」と、本人が救助を求めました。長野県警山岳遭難救助隊などが出動し、男性を背負って下山。病院に搬送しましたが、けがもなく無事だったという救助活動です。警察は、「自分の技術や体力に見合った登山をするように!」と注意を呼びかけたというものです。

もう一つは北アルプスでの出来事。9月17日の午後3時半ごろ、前穂高岳の標高2,900メートル付近で「小学1年の男子児童6歳」が動けなくなったと、同行する保護者から救助要請がありました。長野県警山岳遭難救助隊が出動して、午後7時過ぎに近くの山小屋まで連れ帰ったという活動です。

登山ブームは収まることを知りません。
TV番組やYouTube動画でも、画面が映し出す山岳風景は美しく、解き放たれた別世界に多くの人が憧れます。一方で、「山をなめてはいけない」…麓に暮らす我々は誰もがそれを知っています。ましてや6歳児の北アルプス登頂が無謀だとも、誰もがわかります。無謀な登山には死が待ち受けることを誰もが知っています。

前述の遭難者たちは、救助費用に対していくらを支払っているのでしょうか?
答えは「無料」。たとえ救助ヘリが出動したとしてもタダだったはずです。今後も、「疲れちゃった…」という理由による救助が増加するならば、その救助費用は請求されるべきではないか?と一般的な感情が湧きます。

埼玉県では、2018年に「山岳エリアで、救助のために防災ヘリが出動した場合は有料とする」条例が施行されました。料金は5分ごとに5000円。過去の平均救助時間は1時間程度とのことなので、その費用は約6万円かかります。
埼玉県以外で、救助費用の有料化を行う自治体はありませんが、長野県と山岳を共有する隣県は、協議を進める必要があるかもしれません。タクシー代わりの救助要請が、容易く許される日本の登山文化であってはなりません。

初冠雪時の中央アルプス・千畳敷カール