馬見塚のお祭り

2023年のゴールデンウィークで賑わった駒ヶ根です。
過去の忌まわしい自粛期間を脱却し、例年の賑やかさを取り戻しました。5月3日には、4年ぶりに「馬見塚のお祭り」が行われています。

正しく言えば、「馬見塚公園内にある、蚕玉神社の例大祭」となるでしょうか。駒ヶ根では昔から有名なお祭りのひとつであり、通称「馬見塚のお祭り」として親しまれてきました。昔は飯田線も、お祭り用の「臨時列車」を駒ヶ根駅~伊那福岡駅間で運行させたと聞いています。それほどまでの大祭であった理由は大きく2つあったと考えられます。

その一つは「お蚕様(おかいこさま)」です。伊那谷は養蚕が盛んで、農家の重要な収入源でした。そんな時代に広がったのが、蚕玉大神(こだまおおかみ)を祀る信仰です。現金収入をもたらすお蚕の神様として、信仰の中心となったのが馬見塚公園の「蚕玉神社」です。
コロナ禍以前の5月3日の例大祭では、獅子舞による神楽奉納や吹奏楽部の演奏、お菓子投げなどが行われ、露店もいくつか並んでいました。もっと以前では、相撲大会なども行われていました。

古くからこの一帯は「馬見塚」と呼ばれていたようで、その理由は、朝廷に献上する馬の飼育牧場地だったとされます。目印となる「塚」があったとか、馬のお墓の塚があったとかの理由が伝わっていますが、今となっては定かではありません。余談ですが、馬見塚公園から南へ500メートルほどに「馬住ヶ原」という、野球グランドが目印の場所がありますが、ここまでが牧場地一帯だったとすれば何と広大な牧場だったのでしょう。

さて、馬見塚公園のため池は、明治7年に完成した灌漑用のため池です。東側に広がる「南の原」地籍一帯の水田を開墾するには必須の池であり、しかも長い年月を要して完成した念願のため池です。完成時の歓びは現代人では想像もできないほどの大きさだったと思われます。
念願叶った当時の地元青年会が中心となり、ため池周辺を運動場としても整備することにしました。池を周回する競技グランドや相撲土俵、弓道場などを整備。そして草木を植栽するなどして、今で言う「総合運動公園」を、自らの手で造ったのです。お祭りが盛大だった理由の2つ目はここにあるようです。
当時としては画期的な運動施設を備えた公園整備を行い、人々が集る場所であったこと、そして信仰を集める中心の場所であったこと。「馬見塚のお祭り」が盛大だった理由とは、これら2つの背景があったことを知っておくべきでしょう。

最後に、蚕玉神社の御祭神の「蚕玉様」とはどんな神様なのかを知っておきたいと思います。
京都に木嶋神社(このしまじんじゃ)という、柱が三本ある鳥居で有名な神社があります。本殿の東隣には、蚕養神社(こがいじんじゃ)が鎮座していることから、木嶋神社は「蚕の社」とも呼ばれています。
この蚕養神社は、渡来系の秦氏がもたらした養蚕・機織・染色技術に起因すると考えられており、御祭神は「木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)」です。
木花咲耶姫とは、山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で絶世の美女であったと伝わっています。「桜」の美しさと、やがて散る儚さを象徴する美しい女神であり、また『竹取物語』の「かぐや姫」のモデルともされています。後に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚。子授け安産や農業・漁業にご利益があり、蚕の神様として信仰されています。馬見塚の蚕玉様とは、この蚕養神社から勧請した蚕玉大神=木花咲耶姫命という女性の神様だったのです。
まるでそれを象徴するかの様に、ここ馬見塚公園は駒ヶ根の桜の名所であり、同時につつじが咲き誇り、そして池の湖面には宝剣岳を映し出すという、真に女性らしさをたたえた美しい公園です。

馬見塚公園(奥に蚕玉神社がある)
画像/駒ヶ根観光ガイドより http://www.kankou-komagane.com/

駒ヶ根市の建物火災

例年より10日ほど早い、春の駒ヶ根です。
この冬は、火災の多さが目立った冬でした。

暮れから3月までの期間、駒ヶ根市の建物火災は5件も発生しました。
そのうちの4件が住宅密集地の火災だったために、周囲の家までも延焼火災が起きてしまったことが特徴です。厳冬期に家を焼け出された皆様はお辛かった事でしょう。改めてお見舞い申し上げます。
「火災」もまた、高齢化を抱える地方問題のひとつではないでしょうか。

旧市街地での人口減少や、より良い生活環境を求めて、若い世代は郊外で暮らすようになった結果、街の中の高齢化も顕著のようです。昭和の古い家が密集したままで、さらには空き屋も増加しているため、火災の発生時には、当然ながら周囲を巻き込む延焼火災に発展するリスクが増えています。

高齢者の火災リスクが非常に高いのは事実で、「ガス台の安全装置」に救われているケースはとても多いのではないかと考えられます。
夕食の調理でガスを使用中にもかかわらず、大きな声援を上げて地元力士/御嶽海の相撲に熱中してはいませんか?高齢で耳が遠いので、テレビは大音量。そのため、ガス台の安全装置「ピーピー」音はまるで聞こえない。相撲中継が終わって「はっ!」とガスを使っていた事を思い出した時には、既に安全装置で消えていた…。
多くの高齢者家庭も同様ではないか?と想像するとゾッとします。

自宅で炎があがった時、高齢者が初期消火で抑え込むのは大変です。
高齢者宅に、消火器の備えはあるのでしょうか?
そして、一緒に試してあげることも必要です。
離れて暮らす身内任せにせず、いつも隣で暮らす近所どうしでお節介を焼く取り組みこそが、必要性を増しています。
皆で支え合う駒ヶ根でありたいと願います。

ダボス会議と伊那谷の昆虫食

毎年行われるダボス会議とは、「賢人会議」とも呼ばれているそうで、外務省も参加させてもらうほどの権威の高さなのだそうです。
さて、今年の会議において賢人が申されるには、「世界の10億人が『肉食』をやめて『昆虫食』にすれば、それが『カーボンフリー』な世界を実現し、気候変動を抑えられる」との仰せであります。
さらには、「何よりも昆虫からは、良質なたんぱく質が摂取できるのだから」とも仰せであります。
ちなみにですが、この世界的に有名なスイスの山岳リゾート地で行われる会議は、ケーブルカーが直接乗り入れるホテルが会場で、賢人の方々のディナーは、ステーキやサーモンをお召し上がりになられたということでございます。

信じがたいでしょうが、日本国内へ目を向ければ、賢人たちの影響力は既に現実となって表れています。
四国地方の高校では、コオロギの粉末を練り込んだコロッケが給食で提供されたとか、NTT東日本は、各地にある支店の空き部屋を利用してコオロギ飼育に乗り出すだとか、日本航空の子会社がコオロギの粉末入りハンバーガーを機内食で出すのだとか、既にコオロギせんべいが無印良品の店頭に並んでいるとか、Pascoがコオロギパンの販売を開始したとか…これはSDGsとやらを邁進する企業様にとっては止められない事業のようです。読売新聞も「国内でも昆虫食への関心は広がっている」と、お書きになられていることから、世論作りも着々と進行中です。

今回のブログの本題はここからです。
「昆虫食などと馬鹿を言うな!」と声を発する時、巧みに引き合いに出されて利用されるのが、私たちの暮らす伊那谷だというお話です。
つまり、『…長野県の伊那谷の地方では、昔から昆虫食が盛んで、色んな昆虫を食べてきましたから、それほど怖がる事ではありません。』という論調に利用されるやり方です。今後はこの様な「伊那谷では、昔から昆虫食べてます」論を、様々な人から耳にするでしょう。

さてここで、ハッキリと申さなければなりませんが、伊那谷の昆虫食は「食文化」であり、そのご意見とは決定的に異なります。
食糧不足、CO2削減や気候変動の抑制のために「庶民はコオロギ食っとけ」論と、伊那谷の食文化をひとくくりにされる言われはありません。

我々はそこらにいる虫をやたらに捕まえて食べてきたわけではなく、食材は季節ごとに自然から授かった厳選された命でした。それは保存食でもあり、豊富なタンパク源だとわかっていた知恵でもあり、年に一度だけ授かる貴重な天の恵みとして食べていたことまでをご理解されていますでしょうか?
むしろスペシャルな食材として珍重してきたのが伊那谷の昆虫食文化です。
ざざ虫・蜂の子・イナゴ・蚕のさなぎ。確かにそれらは昆虫ではあるものの、食材として「畏敬の念と感謝の気持ち」を持ち合わせているのが伊那谷の人々であり、この食文化を恥じる事も無ければ、否定するつもりもありません。
コオロギを召し上がりたい方はご自由にされればよろしいのですが、崇高な伊那谷の食文化を、コオロギ論争に巻き込まないでほしいと願います。
蜂の子の佃煮(画像/あけびさん)

竹林の管理放棄

竹林の管理放棄が全国で深刻化しています。
駒ヶ根市でも同様であり、その実感が湧くのが冬の季節であるという話題です。

降雪の少ない伊那谷ですが、いざ雪が積もると道路脇の竹林が、雪の重さでしなったり折れたりして、車道や歩道をふさぐ事態があちらこちらで起こります。そのせいで、行き交うクルマやトラックは避けあい譲り合うなどするわけですが、これが結構危険で迷惑なものです。また子供の通学にも危険が増してしまいます。地方社会の高齢化は、竹林を管理する担い手を欠くことにもなっているという、社会問題なのです。

伊那谷の竹林は、古来から日本に自生していた真竹「マダケ」と思われます。家屋や集落の裏山や田畑の山際などの、人の生活に近い場所に竹林が見られるのは、きっとそこへ移植されたからでしょう。
当時の人々の暮らしに、竹は欠かすことができなかった事は言うまでもありません。篭(かご)や箕(み)といった農具、弓矢といった武具、土壁を塗るときの芯材や竹釘・垣根としての建築資材。箸・櫛・ひしゃく・団扇の骨などの日用品、物干し竿・梯子・ほうきなどの生活用品等、挙げればキリがありません。
一方では食料として、また茶道具や美術装飾品に姿を変えたり、防災林としての活用もあったようです。
ですから、竹林を所有することは豊かさの象徴だったわけです。人の暮らしと密接に関わってきたそんな竹も、1970年台にはプラスチックに置き換わり、人との関係は急速に途絶えました。

しかし、令和の時代になっても竹林の繁殖力は旺盛なままです。
毎年3メートルの地下茎を伸ばし、順次タケノコを生やして成長しています。そうして放置竹林は里山を侵食し続け、面積を拡大し続けているのです。
一方で保水力のない竹林は、近年の大雨によって土砂崩落を引き起こす要因とも指摘されています。
もはや放置竹林をどうするべきか?真剣に議論する必要がありそうです。皆さんに良いお考えはないでしょうか?

箱根駅伝・伊那谷の選手たち

本年もあるぷす不動産をご愛顧の程、宜しくお願い申し上げます。

新春早々から、伊那谷には明るい話題が巻き起こりました。
日本中の多くの方が箱根駅伝の中継に釘付けとなったことでしょう。そんな今年の箱根駅伝では、駒ヶ根市の伊藤大志君(早稲田大学2年)と箕輪町の山川拓馬君(駒澤大学1年)が同じ山登りの5区を任され、それぞれ見事な大役を果たしました。

駒ヶ根市出身の「伊藤大志」君(早稲田大学2年・佐久長聖高校)は、昨年の1年生から箱根を走る有力選手ですから、2023年の出場メンバーにも選ばれてはいましたが、何事もなく、どこの区間を走るのかまでは、12月30日のニュースまで待たなければなりませんでした。
やきもきした結果、2022年同様に「山登り5区」を任されることを知り、楽しみな新年を迎えた駒ヶ根市民でした。
箱根駅伝では、山登り5区と山下り6区は特別な難区間ですから、昨年に大役を果たした伊藤君がそのまま2年連続で5区を任されるのは妥当な戦略だったでしょう。あいにく、早稲田大学は優勝までは狙えません。来年以降へ望みをつなげるためにも、上位でシード権を獲得することが使命と考えれば順当な戦略です。

一方で優勝奪還に燃える駒澤大学は、1日目・往路最終区の山登りに、箕輪町出身1年生の「山川拓馬」君(上伊那農業高校)を起用しました。
1位を走る雄姿を中継車は写し続け、誇らしげにテレビ画面に表示される「上伊那農業高校」の文字に、伊那谷の人々は高揚しました。
当然ながら、山登りの適正は十二分に備えていると判断されていたでしょうし、実力は折り紙ずみで起用されたことは間違いないでしょう。とは言え、5区はそれまでの平地を走るのとは大きく違います。走り方に適性がある者にしか託せませんし、標高差も800m近くありますから過酷です。気温の低下に備えて、5区・6区の選手だけはランニングシャツではなくTシャツを着て、アームカバーと手袋も付けて寒さ対策をします。
山川君の入学時、大八木・駒澤大学監督には「本気で育てる」と言わしめたものの、今年は優勝を狙う大会です。まさかの1年生起用で、しかも山登りでの起用には周囲からも「大丈夫か?」と心配されたことでしょう。

さて一位でタスキを受けた山川君は、そんな不安はどこ吹く風とばかりに、あどけなさが残る顔を紅潮させながらも無難に山を登り続けます。
後方から赤色の「C」のマーク・中央大学が迫りますが、確実な走りで芦ノ湖まで一位を守り続け、見事に往路優勝のテープを切りました。スターの誕生です。
6位で小田原を出た伊藤君は、順位を一つ上げて5位で芦ノ湖まで登ってきました。ベスト5入りで往路を終えた事は、早稲田大学にとっては価値ある走りでした。
二人ともに期待に敵う走りを披露し、結果を出していることからすれば、来年も同じ山登り5区を任されることになるでしょう。
伊那谷の子は寒さに強く、しかも山を登ったり下ったりは長けています。数年前までは中川村・上伊那農業高校出身の桃澤大祐君が山梨学院大学で 山下り6区のエキスパートとして活躍しました。
近年の彼らの活躍は伊那谷の陸上界には輝く希望の星です。上伊那農業高校陸上部は「名門復活」へ向けて士気が上がることでしょう。
箱根の山は伊那谷の選手に任せろ!


山川拓馬君(箕輪町出身・駒澤大学)


伊藤大志君(駒ヶ根市出身・早稲田大学)

箱根駅伝公
式サイトhttps://www.hakone-ekiden.jp/
日テレ第99回箱根駅伝https://www.ntv.co.jp/hakone/

 

 

 

「ベイブリッジ号」と「こまがね号」と「リニア中央新幹線」

伊那バス運行の飯田発・駒ヶ根経由ー横浜行きの高速バス「ベイブリッジ号」は、コロナ禍で運休中ですが、恐らくはこのまま廃止されるのではないでしょうか? 京王バスや信南交通はずいぶん前に撤退していることからも、そんな危惧を抱きます。
朝夕1本ずつの便でさえ赤字路線ではなかったかと、乗客数からは察しますし、路線バスの宿命なのでしょうが、「圏央道」が開通した後も、それを通過し都内から迂回する「許認可道路」を走り続けた4時間半の旅でした。

かつての新宿駅から横浜への電車移動は、面倒で時間もかかりました。
一方で、伊那北高校や飯田高校などの南信地方からは、毎年およそ30名が神奈川大学や横浜国大へ進学するようですし、横浜への観光需要は安定的に見込めますから、高速バス「ベイブリッジ号」が果たした役割は大きかったはずです。
ところがここ10年のうちに、東京都内の鉄道の利便性は格段に向上しました。オリンピック景気が追い風でしたが、「ベイブリッジ号」には逆風でした。電車で新宿ー横浜間が近くなったので、新宿着・発の高速バスを利用した方が遥かに柔軟というわけです。
バスターミナル「バスタ新宿」の開業も、ベイブリッジ号にとっては不利でした。

とは言え、高速バスは鉄道路線を数多く奪うことで発展してきたのです。旧国鉄の天竜峡発-新宿行き「急行こまがね号」の廃止もその一つでした。
飯田線を行く4両編成の「急行こまがね号」は辰野駅まで向かうと、松本からやってきた8両編成の「急行アルプス号」のお尻に連結されてから、中央本線を終点の新宿駅まで直通した急行列車でした。旧国鉄時代の昭和61年(1986年)まで運行されていましたが、ダイヤを廃止に追い込んだのは中央自動車道の「高速バス」です。
「急行こまがね号」の乗車時間は駒ヶ根から約5時間半の長旅でしたが、白づくめの華美な制服の車掌さん、順番に通過する駅の旅情、流れる車窓の豊かさは想い出深いものでした。列車内の誰もが旅人で、上京する鼓動の高まりとレールを叩く音。「急行こまがね号」は心を運ぶ列車でした。

さて、変遷を繰り返してきた交通の歴史は、新たな時代を駒ヶ根にもたらそうとしています。
リニア中央新幹線が開通する数年後、飯田駅から橋本駅あるいは品川駅までは、各停乗車で40~50分で到着するようです。飯田ー駒ヶ根間のアクセスは、クルマですと座光寺スマートIC利用で片道35分。つまりそれは、駒ヶ根市から2時間後には銀座三越に到着。もっと遠くても浅草雷門くらいは2時間で行かれる世界なのです。
横浜や八王子に暮らす大学生のご子息の帰省時間も半分の2時間少々。しかも中央道の渋滞に関係なくオンタイムで駒ヶ根へ帰って来ます。
それは現実で、間もなくやって来ます。

2023年が未来へ繋がる良い年になります様に。
皆様のご多幸をお祈り申し上げ、今年最後の記事にいたします。
ありがとうございました。

飯田線(JR東海115系)

小平奈緒選手の引退と伊那谷スケート

紅葉が燃え盛る駒ヶ根です。
去る10月下旬、スピードスケート冬季五輪の金メダリスト小平奈緒選手が引退しました。
他を寄せ付けない圧巻のスピードで全日本女子500mを優勝した姿からすれば、「引退する必要があるのか?」と、誰もが思うほどの強さと速さ・完成された美しさでした。

小平選手は中学~高校にかけて、名コーチである新谷純夫氏(宮田村)に師事しました。ご自宅へ下宿をし、伊那西高校へ通っていたものですから、伊那谷の人々は地元の選手とさえ思っています。新谷氏は2010年バンクーバー五輪に出場した新谷志保美さんのお父様でもあります。それほどまでに、かつての伊那谷にはスケートが根付いており、新谷コーチほどの名伯楽さえも存在したという事実です。

冬のシーズンを迎えると、「小平奈緒」選手の名前はニュースや新聞紙面を賑わし、ついにオリンピックの金メダリストにまで昇り詰めました。子供の頃から打ち込んできたことが開花することはあっても、世界で1番を取れる人など存在し得ません。そんな小平選手が引退するのですから事は重大に決まっています。しかし伊那谷の人々にとって小平選手の引退は、「伊那谷のスケートよ、さようなら」そんな歴史の終わりを印象付ける様な出来事だったように思えます。

昭和55年位までの伊那谷には、至る所に田んぼのリンクが存在し、どこの小学校でも「スケート大会」を行っていたほどでした。身近なスケートですから、小学生ともなれば子供という子供全員が親からスケート靴を履かされ、田んぼの氷の上に立たされたものです。
当時、飯島町の千人塚スケート場は憧れの天然スケートリンクで、湖上に2面作られたリンクには埋め尽くさんばかりの老若男女が集まり、伊那バスは「千人塚行き」の定期便を数多く運行させていました。あんなに身近で楽しかったスケートだったのに、天然リンクが出来なくなった伊那谷にとってはもう遠い過去の記憶遺産です。自分がしてもらったように、子供や孫へスケート靴を履かせる光景を見ることはありません。

それでも、冬になれば小平選手がスケートで活躍するニュースは、伊那谷の人々とスケートとを結び続けていたのです。それがいよいよ引退してしまいました。最強で唯一の誇れる伊那谷スケーターがいなくなってしまった瞬間、伊那谷のスケートはとうとう想い出の中へ、図書館の歴史書の中へと旅立った気がします。
再び世界を駆けるスケーターが伊那谷から誕生しますように…。
画像/千人塚センターハウスに展示中のパネルより https://www.senninzuka.site/

「鉄道の日」共楽園のD51

紅葉が始まった駒ヶ根です。
10月14日は「鉄道の日」、新橋~横浜間に鉄道が開通してから今年は節目の150年となります。駒ヶ根市最北にある公園「共楽園」に展示してある蒸気機関車「D51」について思いを寄せてみましょう。

この蒸気機関車は決して「飯田線」を走っていたわけではありません。もともと飯田線は「伊那電気鉄道」という名の私鉄であり、直結していた豊橋までの私鉄3社と合わせて戦時中に国有化されたのが飯田線です。そんな背景から蒸気機関車が飯田線で運用された記録は無いようです。

さて、共楽園の蒸気機関車の鼻先の銘板には「D51 837」と刻印されています。
D51は日本で一番大きな蒸気機関車で、最も多く製造された機種です。そして、その837番目に製造されたという車歴を意味しています。
この837番車は1943年度製で、国鉄鷹取工場(兵庫県神戸市)で製造されたことがわかります。大東亜戦争真っ只中の1943年は、南太平洋での戦況が悪化していた頃。そんな時代にこの機関車は生まれました。

岡山へ配置されてからは「伯備線」、つまり山陰地方をタテに縦断しながら走っていたのでしょう。のちに山口へ配置換えされてからは「山陽本線」で活躍したそうです。そして1974年に引退。その年のうちに、見知らぬ土地ではあったものの、ここ駒ヶ根に安住の地を与えられてやって来ました。

1970年代は、引退した蒸気機関車が国鉄から全国の自治体へ無償で譲渡された時代でした。戦時中に大量生産されたこともあり、国鉄が所有する蒸気機関車は1,115両に達していたと言われます。国鉄はそれら機関車の処分を免れると共に、一方で全国の街では喜んで蒸気機関車を譲り受けたのだろうと思います。駒ヶ根、伊那、飯田、諏訪、岡谷、茅野…近隣の街にも必ず、どこかに蒸気機関車が保存されています。

シンボルだったり、子供たちの遊具だったりといった引退後の役割は果たしたものの、あれから50年を迎えようとしています。実物保存にはメンテナンスが必須で、予算と覚悟も必要です。多くの自治体では、今や「公園の蒸気機関車」はお荷物だと言われ、解体するにも2,000万円の費用が掛かると言われます。共楽園のD51はペンキ補修が行われてはいますが、あの眩しかった「デゴイチ」も、年月と共に朽ちゆく姿は否めません。各地の朽ち行く機関車を見るのは悲しいものです。かつて逞しく強かったはずの姿からは、声なき声を発しているような錯覚を覚えます。将来駒ヶ根市も、決断を迫られる日を迎えるのでしょうか。

画像/駒ヶ根市・共楽園に展示中のD51(837)

中央アルプス「檜尾小屋」(ひのきおごや)

紅葉の登山シーズンを迎える駒ヶ根です。
中央アルプス檜尾岳(標高2,728m)から300mほど伊那谷側に、「檜尾小屋」があります。1950年代~2021年(令和3年)までの長期に渡り、10名ほどを収容できる無人の「避難小屋」でしたが、今シーズンからは有人化された「山小屋」として新たな歴史がスタートしました。

元々は、遭難事故で亡くなった登山者の父親が「二度とこのような事故が起こらない様に」との願いから、自費で避難小屋を建てられたのが始まりと聞きます。
最初は石積みの室小屋だったそうですが、木造トタン葺の小屋になってからも、あくまでも小さな避難小屋のままでした。

駒ヶ根市では、この小屋をトップシーズンの7月~10月だけは有人の山小屋として運用できるようにしたいとの改修計画を立てました。
一つ目の理由として、中央アルプスが抱える安全性の課題克服が挙げられるでしょう。
中央アルプスの縦走は多くの登山者の憧れのひとつでもありますが、最も深刻な問題として、長い縦走距離にもかかわらず有人の山小屋がアンバランスな配置であると言われます。ひとたび避難に迫られた時でも、この檜尾岳の避難小屋のみで、且つテント場さえ無いという状況の危険性を指摘されていました。

2013年には檜尾岳付近で、韓国人パーティー4人が亡くなった遭難事故が発生します。登山知識に乏しい軽装での入山だったそうですが、中央アルプスはアップダウンの激しさやガレ場の多さと藪漕ぎの多さ、加えてコースがわかりにくいという難所でもあります。
きっとロープウェイの存在が観光色を強くし、険しい山岳イメージが薄らいでいるのかもしれません。
今後の檜尾小屋の有人化が果たす役割は大きいはずです。

二つ目の理由は、中央アルプスの「国定公園」化でしょう。以前にも触れましたが、中央アルプスは「国立公園」ではなく「国定公園」ですので、管理する市町村の自由度が与えれています。
駒ヶ根市はこのルールを上手に活用したのではないでしょうか。リニア開通を念頭において、中央アルプスを有する駒ヶ根市にとっては、観光資源の魅力向上にもつながる施策となったはずです。
簡素な避難小屋を増築して収容人数40人に拡げ、同時にテント場も周囲に整備しました。他の営業小屋に比べれば食事などの提供もありませんので見劣りはします。それでも登山者にとっては「時間に追われる縦走」から解放され、安全と安心を得られることができました。

改修費用に関する話も付け加える必要があるでしょう。
8,550万円の改修費用を見込んだ駒ヶ根市は、一部の300万円をクラウドファンディングに委ねてみたのです。更には、プロジェクトをより多くの山岳愛好家に知ってもらうために、登山アプリ「YAMAP」を運営する株式会社ヤマップとコラボするなどした結果、目標を大幅に超える寄付金額764万4千円を募ることができたのです。
山を愛する人たちと共に改修を終えた「檜尾小屋」の更なる発展を期待します。

予約・お問い合わせ【檜尾小屋】
https://www.hinokio-chuoalps.com/
電話 090-7957-7650

無電柱化と駒ヶ根市

先日、山梨県内を走行中、「心地よい空間」に入りました。何かが違う…その通りには電柱・電線が無いことに気付きました。しかしその時に強く思ったのは、観光立国を掲げる長野県こそ「無電柱化の先進県」であってほしいという願いです。

もちろん長野市では、善光寺参道や市街地の多くで電柱・電線はありませんし、松本市でも駅周辺や松本城周辺は無電柱化されています。2つの地方都市は、日本を代表する門前町と城下町のため、市街地の再開発スピードも速く、連動して無電柱化を行えた背景があります。

一方で、他の県内市町村ともなれば、とてもそんな訳には行きません。
しかし、印象的なのは「しなの鉄道」沿線の街は、無電柱化された駅前通りが多いという事実です。きっとその背景には、長野北陸新幹線の開通と引き換えに信越本線をJRが手放すことによる街の衰退に危機感を抱いた市民と行政があったのでしょう。官民が一体となった「強い意志」による無電柱化事業が行われたのではないかと推測します。=長野市の篠井駅前通り=千曲市の矢代駅前通り=上田市の駅前通り=小諸市の駅前通り=は、無電柱化された清々しい景観を見せています。

白馬村駅周辺では、2年がかりの無電柱化工事が現在進められています。世界に誇るスノーエリアにとっては大変有意義であり、これが長野県内全域へと波及すれば、ヨーロッパの山岳風景にも負けないNAGANO,JAPANに生まれ変わることでしょう。

さて、駒ヶ根市はどうなのでしょうか?
実は「駒ヶ根ファームの前面」と「JR駒ヶ根駅の前面」の極々狭い場所での無電柱化にとどまっているのが現状です。ほぼ進んでいない残念な気持ちと、同時に財政が乏しい駒ヶ根市では仕方ないか…とのあきらめ気分が交錯します。
大きな自治体では、「無電柱化推進計画」なる特化した事業計画が存在しますが、駒ヶ根市には未だ存在しないようで、どうにか見つけた資料を要約すると「市街地の再開発を進める時には、無電柱化も同時に行いましょう」といった副産物的な内容で記載されるに留められています。

東南海沖地震が発生した際は、多くの電柱が倒れ、絡まった電線が避難者や救助の行く手を阻むでしょうから、無電柱化には「防災」の側面もあります。
電柱・電線の無い、澄み渡った景色の、そんな駒ヶ根の未来が早く訪れることを期待してやみません。

(多くの場合、この様に電柱と電線が映り込んでしまうのです…)