天下の糸平(てんかのいとへい)

「郷土の隠れた偉人」と称されるように、生まれ故郷の駒ヶ根でさえも多くの人がその存在を知りません。歴史の表舞台に刻まれなかったのはなぜでしょうか?
今回のブログは、当社の主観で「天下の糸平」に迫ります。あくまでも一考察としてご理解いただき、歴史認識へのご批判は寛容にお許し下さい。

結論から言えば、「天下の糸平」こと田中平八(たなかへいはち)は、その素性が「相場師」であったことが、表舞台から疎まれた理由と考えています。

相場師としてのDNAは生まれ持ったものだったかもしれません。
1834年、伊那郡赤須村(現在の駒ヶ根市・駒ヶ根郵便局のあたり)にて、平八(幼名:釜吉)は生まれました。資産家だった生家は相場に失敗して没落します。そのため、12歳頃には飯田の魚屋へ丁稚奉公に出されました。

1853年に結婚。飯田ご城下の染物屋・田中家の婿養子に入りますが、今度は自身が米相場で大失敗。

江戸へ出たのが幕末の混乱期。倒幕運動側の尊王攘夷運動に傾倒しますが投獄。出獄後の生きる道はやはり相場だったようで、横浜へ出ます。
ちょうど生糸(シルク)の輸出に沸き始めた横浜港。「糸屋平八商店」を開業して、ここからの人生が大成功を収めるのです。
生糸や洋銀相場で財を成す勢いは「天下の糸平」の異名を取り、横浜金穀相場会所、洋銀相場会所を設立するなどして、相場の世界で「天下人」となったのです。
しかし、あろうことか外国人商人との貿易を巡り、偽札を刷って見せ金としたことが露見。これをもって横浜の商売からは手を引く羽目になりました。

東京へと移っても相場の天下人は健在。東京株式取引所や東京米穀取引所を設立。ここでも大儲けをしたとされています。
いかがでしょう?実業家と言うよりは、平八はあくまでも「相場」に生きた人だとわかります。

一つのエピソード。故郷である飯田の農家から生糸を買い入れた際の、平八の手口が知られています。
まず、3百両(現在の3千万円)の手付金を持って飯田に帰り、10倍の3千両(3億円)分の生糸を仕入れます。横浜に持ち帰った生糸は、さらに10倍の3万両以上(30億円以上)で外国商社に売り渡したという大儲け話です。
3千万円のキャッシュで、30億円の商売をする傑出さには恐れ入りますが、郷土の為に、郷土の農業振興に尽力したとの印象が持てないのは、私共だけでしょうか。
飯田警察署入り口には「天下の糸平」と書かれた顕彰碑がありますが、飯田の人の多くが石碑の意味を知らないことが、真実を物語っている気がします。

さて、こうした天下人の財力は、どこに注がれたのでしょう?
それは他の財界人の様な鉄道事業への投資でもなければ、日本美術品の保護収集でもありません。
吉原から「お倉」という女性を身請けしますが、お倉には横浜の大料亭「富貴楼」を任せます。富貴楼は料亭政治の先駆けとなり、伊藤博文、大久保利通、山形有朋、大隈重信などといった明治の”表舞台”の偉人が足しげく通う一方、岩崎弥太郎、渋沢栄一といった財界人や市川團十郎などの芸能人も通うほどの一流の社交場でした。

平八は討幕派でしたから、明治の偉人達とは人脈形成でも運が味方したように思います。莫大な財産は、これらの表舞台の政治家たちに、裏の舞台から還流したであろうことは想像に難くありません。その裏舞台が「富貴楼」であり、莫大な財力は、平八をフィクサーとしての立場へ擁立したのでしょう。
素性は「相場師」であり、しかも「無学」。
明治の「フィクサー」は歴史の中にひっそりと収まることの方が、むしろ必然だったのかもしれません。それが当ブログ的考察です。

1884年、平八は肺結核により熱海療養中に51歳で没します。
想像するに、多くの人から嫌われ、嫉まれた人生だったことでしょう。
しかし、他人の目などお構いなしに、巨万の財を得る為に生き、そしてその財は近代国家を目指す明治という時代へ消えていった。

東京墨田区向島「木母寺」に建てられた墓碑には、伊藤博文の筆で「天下之糸平」と刻まれました。天下とは「天下の相場師」…ではなく、「天下の金持ち」という意味だったのではないでしょうか?。しかしその金は、「明治近代国家に役立ったぞ!」そんな伊藤博文の心情を読み取れる碑文字であると思います。

天下の糸平出生地の碑(駒ヶ根郵便局北口)