梅雨入り目前の駒ヶ根です。
未曽有の豪雨災害である、昭和36年の「三六災害」を決して忘れないように、河川の警戒が必要です。
(水害の歴史)
日本書紀によれば、飛鳥時代の持統天皇5年(691年)、季節外れの長雨による水害に頭を悩ました朝廷は、天候回復の祈願をするようにと、下記の神社に使者を遣わしたと記されています。
①龍田風神(奈良県の龍田大社=風の神様)
②信濃の須波(スワ)の神=長野県の諏訪大社(天竜川の水神様)
③信濃の水内(ミノチ)の神=長野県の善光寺付近の水内神社(健御名方富命彦神別神社・千曲川の水神様)
朝廷のお膝元の、奈良の龍田神社にて風の神様を鎮め、諏訪大社では天竜川の水神様、水内神社では千曲川の水神様を祈願させていることから、信濃(長野県)の二大河川の水害が、当時から朝廷を悩ましていたことが推測できます。
(名称の変遷)
ところで、伊那谷の中心を流れる我々の天竜川は、いつの時代から「天竜川」と呼ばれるようになったのでしょうか?
「日本書紀」に続く国の編纂歴史書の第二段、『続日本紀』(しょくにほんぎ)に、その手掛かりがあります。
『続日本紀』には、遠江国(今の静岡県の中西部)の『麁玉河(荒玉河=あらたまがわ)が、霊亀元年(715年)に水害を起こした』と記述されています。これは天竜川のことであると考えられ、平安初期には「あらたまがわ」と呼ばれています。激流に洗われた大きな玉石だらけの天竜川ですから、「荒れた玉の川」と呼ばれていたのでしょう。
その後、平安時代中期~後期になると、「広瀬川」へと名称が変わり、さらに鎌倉時代になると「天(あめ)の中川」と呼ばれたことが分かっています。
川裾が広がる下流の様子から「広瀬川」と呼ばれたり、武士の時代には領地を明確にする必要から、「天(高い所)から流れて来て、三河と遠江との領地を真ん中で分ける川」という意味で、「天の中川」と呼ばれたのだと考えられます。
(あめのながれ)
本題である、「天竜川」と呼ばれるようになった時代を探ることにしましょう。
時代の変遷と共に「麁玉河」や「広瀬川」「天の中川」との名称であったと話しましたが、実はそれらとは別に、畏敬の念を込めた別の呼び方が、人々の中には浸透していたようです。それは、「あめのながれ」。どうやらそこにヒントがありそうです。
諏訪湖が源流の天竜川ですが、水源を辿ればそこは八ヶ岳や霧ヶ峰。途中から中央アルプス・南アルプスからの支流が流れ込みます。
つまりは、一番天に近い信濃に降った雨が、海へと流れ出るこの川は「あめのながれ」であると。誰とはなしに、自然崇拝的な畏れの念から「あめのながれ」と呼ばれていたものと思われます。
漢字が使われるようになると『天流川』と書かれるようになり、音読みに転じて「てんりゅうがわ」へと変化し、名称として確立した説が最も有力と考えています。
「音読み」が普及したのは、仏教が爆発的に普及した鎌倉時代と重なることから、「天流川(てんりゅうがわ)」の名称で確定された時代とは、今から700年~800年前頃だと推測できます。
そこからさらに「流」の文字は、諏訪大社の水神様に氾濫を鎮まるようにお祀りしてきた歴史から、必然と「竜」の文字へと変化したと考えられます。
(正体は竜)
200m下るごとに1m下がる急傾斜の天竜川は、その落差を活かした発電所建設で電力を生み、日本の経済成長を支えてきました。灌漑用水に使われ始めると、大量の米を増産し、人口増加を支えました。河原の豊富な玉石は、あちらこちらの石垣に転用されてインフラを発展させ、堤防工事に活用して治水事業に役立ちました。昭和期に入ると、釣り客や「天竜船下り」などの観光資源ともなりました。
こうして昔から、天竜川と伊那谷の人々は折り合いを付けて暮らしています。
ただし、ダムや堤防で天竜川を封じ込めた気でいる人間ですが、相手は「竜」であることを決して忘れてはいけません。梅雨前線が停滞すれば、現代でも「あめのながれ」には逆らえないのです。
梅雨時期、渓谷を埋め尽くすまでに増水した天竜川(吉瀬ダム付近)