甲州征伐と武田氏滅亡。戦場となった伊那谷

442年前、織田信長は武田氏を滅ぼす総攻撃を行いました。世にいう「甲州征伐」です。この時伊那谷は、織田信長と嫡男・信忠率いる本隊が北上し、武田勢力下にあった私たちの伊那谷は戦場となりました。

1582年(天正10年)、織田信長の本隊は信濃に侵入し、伊那街道(およそ国道153号線沿い)を甲府を目指して北上します。兵力18,000人にも及ぶ大軍勢でした。
それに対し、せいぜい数百名の兵力であっただろう伊那谷の各城にしてみれば、寝返って生き延びるか、討ち死にするかの二者択一です。

寝返ったのは下伊那郡の各城。
信濃へ入った初日に、平谷村/阿智村一帯の豪族・下条氏は織田軍に寝返り。
飯田市手前の「松尾城」小笠原氏も寝返るどころか、狼煙を上げて織田軍の侵攻を手引きします。
飯田へ入ると「飯田城」保科正直も戦わずに高遠城へと逃亡。
武田領の要塞だった松川町の「大島城」まで北上した際にも、武田勝頼の叔父・信廉でさえ、甲斐国へ逃亡してしまいました。
こうして、事実上戦わずして下伊那郡の戦線は崩壊してしまいました。

無抵抗のまま進軍をしてきた織田軍勢でしたが、一転、上伊那郡に入ると戦況は変わります。
大島城から5kmほど北上した先には「船山城」(松川町上片桐/中川村片桐)が現れます。築城は片切氏と呼ばれる信濃の名族で、今でも「片桐」の名は地名や苗字に色濃く残っています。
この船山城から高遠城までは、現代の行政区分で言う「上伊那郡」へと地域が変わり、地理や気候風土、話し言葉にも変化が表われますが、何よりもこの時、上伊那勢は戦う(=討ち死にする)側を選択したのです。

しかし、虚しくも「船山城」は落城。400有余年の歴史に終わりを告げますが、次に待ち構えるのは、北へ6Kmの飯島町七久保の「北山城」。
「北山城」を守っていたのは、船山城主の家臣である上沼氏でした。
されど北山城も落城。
ところがこの戦では、敵味方合わせて1,000体もの戦死者が出たとされます。数の多さから推測すれば、船山城落城後も、命ある一族は北山城へ再度集結して最後の戦に臨んだのかもしれません。いずれにせよ、余りに多い戦死者や武具一切を埋めて塚として葬ったのが、今の飯島町七久保の「千人塚公園」です。

進軍はさらに北上し、駒ヶ根市の「赤須城」に迫ります。
その「赤須城」もまた、「船山城主・片切為清」の子である片切孫三郎為幸によって築かれた城であり、代々「赤須氏」を名乗って居城としてきたものです。
この時、8km後方の戦況は十分に承知していた事でしょう。援軍など、もはや望むべくもなく、織田軍勢が到着する時が赤須城の落城=赤須氏の滅亡であることも覚悟したに相違ありません。宗家の「船山城」片切氏やその家臣「北山城」上沼氏と、運命を共にする覚悟を決めたのです。

その後の伊那市「春日城」伊那部氏、武田の支城であり伊那谷の本城「高遠城」も陥落。こうして織田軍は伊那谷を制圧後、諏訪を経由して甲州までの進軍を果たしたのでした。その後はご存じの通り、追い詰められた武田勝頼は山梨県甲州市「天目山」にて一族家臣共に自害し、甲斐・武田氏は滅んだのです。

片切グループである「船山城」「北山城」「赤須城」を制圧するなどは、恐らく1週間程度の事だったでしょう。織田軍にとってはわずかな戦だったはずです。しかし上伊那郡の各城では、わずかな期限で逃げない決断をし、わずかな期間で死の覚悟を決め、瞬く間に多くの血が大地に染み込み、多くの遺体が転がり、激しい血の臭いが辺り一帯を覆ったのです。

織田軍が伊那谷の人間を次々と切り殺しながら進軍した事実。それをドラマや小説ではなく身近に起こったリアルとして想像する時、それはまさに今映し出されるイスラエルやウクライナの悲惨な映像と同じです。あれが、ここでも起きていたのだという事実に置き換わります。
とある大学生がデモ中におっしゃいました。「戦争になる前、僕だったら相手の所に出かけて行って、一晩中酒を酌み交わして解決する!」
しかし、本来するべき事は、毎日の戦争映像を見つめ、世界の現実とは何かを知り、深く考え、多くの歴史を学ぶことです。

(千人塚公園の夕暮れ)織田氏による武田氏甲州征伐の舞台のひとつ