未来へ架けろ!「大久保橋」の架け替え工事

ひと雨ごとに秋に向かっている駒ヶ根です。
駒ヶ根市東伊那から宮田村大久保に架かる「大久保橋」の架け替え工事が進んでいます。「しぶき荘」の眼下に架かる赤い鉄橋はもうすでに56歳。近年ではクルマのすれ違いにも狭い橋となっています。今回はこの赤い橋の歴史を振り返り、ここにも「三六災害の傷跡」が残っていたという話題をお届けします。

元々、天竜川を渡る場所としてこの場所は長く使われてきた歴史があります。橋などが無い時代は「渡し舟」で人々は往来していたと聞きます。
橋が架けられたのは明治時代。橋と言っても当時は「土橋」であり、橋脚は材木で組み、歩道部分に「土」を敷くといった代物ですから頻繁に流されては架け直すの繰り返しだったそうです。
大正時代に入ると吊り橋が架けられ、橋が流される苦労は無くなったものの、当時の吊り橋は揺れがひどくてトラックが川に転落する事故も起こりました。
昭和13年には県による新たな吊り橋が建設され、現在の橋の隣に聳えるコンクリート製の橋塔はその当時の遺構です。
そうしてようやく昭和39年(1964年)、近代建造物となったワーレントラス桁橋の大久保橋が建造され、令和の時代まで使用されてきたという歴史があります。

さて、架け替え工事は数年前から始まっていましたが、明らかに駒ヶ根市側に対して宮田村側の工事が進まないアンバランスな月日が続いていました。
誰もがその違和感は感じたはずです。2年程前になりますが、その理由を地元・東伊那の人に尋ねたことがあります。その方曰く、「大久保の田んぼが、三六災害の人の田んぼらしいんだわ…」それ以上はおっしゃりませんでした。

つまり意訳しますと、“工事を早く進めてほしいとは思うけれど、潰れる対岸の大久保の田んぼは三六災害で被災して移り住んだ人の田んぼだと聞く。被災して、移り住んで、苦労して開墾した田んぼを、今度は潰して下さいって言われたって、そりゃ辛い気持ちもわかる…お役所にお任せするしかないだろう…”という心の声でした。

今年に入り、工事も盛んになりましたのでナイーブな問題は解決を見たのでしょうか?
土橋が流される度に、涙をこらえて人々は人力で橋の架け替えを行っていたことでしょう。どれほどの人々が吊り橋の完成に歓喜の声を挙げたことでしょう。そして近く完成する「令和の大久保橋」もきっと、大久保の人々や東伊那の人々、行き交う多くの伊那谷の人々の喜びに叶う未来橋となることだと思います。時代は変わっても、多くの人の努力と、沢山の涙を乗り越えて架かる「未来への架け橋」なのです。

写真の橋の右側に、より直線的に新しい橋が架けられる予定です。