年取り魚「飛騨鰤」

京都で食べられ始めた高級魚の寒鰤。京文化の導入に余念がない「飛騨高山」の豪商たちも、寒鰤を富山湾から輸入していました。一方では、北陸と江戸を結ぶ近道となる「野麦街道」が整備されます。富山発の塩漬け鰤「越中鰤」が飛騨高山へ着いた後、何とそこからは「飛騨鰤」とブランド名を変えて、野麦街道を信州へと向かう商いが生まれます。こうして信州(中南信地方)の「年取り魚」が鰤となっていった歴史背景があります。富山からの飛騨街道、松本までの野麦街道は共に「鰤街道」とも呼ばれています。

さて私たちの暮らす伊那谷へは、どういった経路で飛騨鰤はやって来たのでしょうか?
飛騨を出発した鰤が野麦峠を越え、奈川まで来てからは木曽へと方角を変え、「境峠」を越えて木祖藪原へと向かいます。木曽谷からはさらに「権兵衛峠」を越えて伊那谷へと飛騨鰤はやって来ました。
飯田行きの鰤は、木曽谷を南下した後に妻籠宿を過ぎてから「大平峠」を越えて飯田へと辿り着きました。
富山発の鰤が飛騨高山経由で伊那谷へ届くまでには、約半月の道のりだったと言います。しかし米1俵分(60Kg)とも2俵分とも言われた飛騨鰤1本の値段ですから、高級魚であった「飛騨鰤」が年取りの膳に上った家は、裕福な家だけに限られたと言われています。

伊那谷のどの家でも年取りに鰤が食べられるようになったのは、ずーっと後の昭和に入ってからの事でしょう。その頃にはすでに飛騨鰤ではなく、鉄道によって富山湾から直接運ばれた鰤だったはずです。すでに1902年(明治35)には国鉄が日本海まで繋がっていました。牛一頭で運べる鰤は最大15本程度とあっては鉄道輸送に敵うはずもなく、「牛」や「歩荷」に頼る鰤の輸送は昭和10年台に終焉を迎えます。江戸時代後期1760年頃~昭和初期1936年頃までの200年近く続いた文化歴史でした。

昭和10年頃とは、日本の生糸(シルク)の生産量が増し、伊那谷の農家にも「蚕」による現金収入が入り始めた時代です。この頃からようやく、各家庭で年取り魚としての鰤が食べられ始めたのではないかと考えられます。実際にはさらにもっと後だったかもしれません。興味深いことに飛騨高山でさえも「どの家でも年取りに鰤を食べられるようになったのは昭和40年頃だ」という証言もある程ですから、伊那谷での真相も定かではありません。
伊那谷で歴史的な「鰤街道の飛騨鰤」を食べたことがある方は、現在85歳以上で、さらにその中でもごく限られた方にとどまることだけは歴史上間違いないと思われます。