悲報/日本武尊(ヤマトタケルノミコト)薨去!

本ブログ4月号にて、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が駒ヶ根に滞在したこと、大御食神社の御祀神が日本武尊であることに触れました。https://www.alps-realty.com/blog/?p=5496

あろうことか…駒ヶ根を旅だったその半年後、日本武尊は亡くなります。
皇子薨去の知らせは、すぐさまヤマト(倭/大和)の父・景行天皇に届けられます。
悲報に触れた景行天皇は深く嘆かれたと「日本書紀」は伝えています。

ヤマトタケルは、大好きな父に褒められたい一心で、ヤマト王権に従わない地方の神々(氏族)たちを征伐して回る戦いに明け暮れた人生。
今度こそ、この東征を終えればきっと父・景行天皇から褒めてもらえるのではないか…そんな願いも敵わず、今の三重県亀山市で亡くなります。30歳でした。

それはまるで、「おまけ」ほどの軽い気持ちで向かった滋賀県伊吹山への征伐でしたが、そこでヤマトタケルは脚に重傷を負ってしまいます。
軽い気持ちの出征だったので、この時は御神剣である「草薙の剣」も携えていなかった事が災いしたのでしょうか?
その傷は致命的であり、二本の脚がまるで三重に見えたとされるほどの重症で、現在「三重県」と呼ばれるのはこの逸話に由来します。

駒ヶ根の「赤須彦」の嘆きもいかほどだったことか。皇子ヤマトタケルから賜った「御食彦(ミケツヒコ)」の名を冠した「大御食神社(オオミケジンジャ)を創建し、ヤマトタケルを御祀神としてお祀り出来たのは、その17年後の景行天皇58年(西暦293年頃・今から1,732年前)でした。

(兄殺し)

そもそも、なぜそれほどまでに、ヤマトタケルは父・景行天皇から疎まれたのでしょう?それは、まだオウス(小碓尊/オウスノミコト)と呼ばれていた頃の話でした。

兄には双子であるオオウス(大碓尊/オオウスノミコト)がいましたが、父・景行天皇の側室候補の姫と密通してしまい、替え玉を差し出しすという暴挙を犯します。
自分の罪に怯えていたのでしょう。兄オオウスは朝食にさえ現れません。
「父はその事実を知っているのか?知らないのか?…」弟オウスはモヤモヤした想いの中で父から兄への伝言を預かるのです。「朝は皆が顔を揃えるようにと、兄オオウスに伝えておきなさい」。

…ところがです!
何を思ったのか、オウスは兄オオウスを捕まえて殺してしまい、しかも手足をもぎ取って袋に詰めてしまったのです。

数日後に父は尋ねます。「その後、兄オオウスはどうした?」…父はオウスが犯した残忍ぶりを知って、驚きを通り越し、恐怖に慄いてしまいます。
「穢れ」を最も嫌う時代、我が子でありながらも天皇が「穢れた者」を手元に置いておくことはできません。
父・景行天皇は、オウスに対し、ヤマト王権の反乱氏族である九州の「熊襲(クマソ)」の征伐を命じます。その時のオウスは若干15~16歳。「もう二度と、ヤマトへは戻って来ないだろう」誰もが、そう思ったそうです。

(ヤマトタケルの誕生)

九州の熊襲を、宴会場で殺そうと計画したオウス。まだ15~16歳ですから女装をして宴会へと潜入。そして切りかかります。
熊襲はオウスに向かい叫びました。「俺は九州のタケル(武)だ!おまえは誰だ!」(武/タケル:統治者)
オウスは咄嗟に「俺はヤマトのタケルだ!」と言い返したことから、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)の名で歴史上を生きることになりました。

そうして西国を制圧し、関東までの東国の制圧に命を捧げたヤマトタケル。終わりのない戦いは、延べ15年間にも及びました。
残虐性を持って生まれたのは事実でしょう。しかしそれが、戦いに暮れる彼の命を救ってきたとも考えられます。
何よりも「大和国家」を成立させていった功績は、さらにその後の国家「日本」へと歴史を繋ぐ基礎となったのです。

各地で、各地の神々(氏族)たちが荒ぶっていた混沌とした時代に、日本国の礎を築いたのは「ヤマトタケル/日本武尊」です。
当事者の本人が本当に望んだものは、父からの愛情でしかなかったところに、ヤマトタケルの悲哀がにじみ出ます。

ヤマトタケルのファンが非常に多いことを、4月のブログ記事以降に知りました。彼の足跡を巡る旅のひとつに、どうぞ駒ヶ根市の「大御食神社」をお参り下さい。きっと、境内にある一番大きな杉の木の下に幕屋が張られ、その中で腰を下ろして酒を飲んでいるのがヤマトタケルと思われます。
1,749年間の時を越え、彼にはそこで逢えそうな予感がするのです。

大御食神社(
住所 長野県駒ヶ根市赤穂市場割11475)
Googleマップ https://maps.app.goo.gl/vPV5HHYvpc32GHdy8

10月、帰っていった学童疎開の子供たち

千畳敷カールの紅葉が見頃の駒ヶ根です。

8月15日の終戦から2か月が経った80年前の10月、「学童疎開」の子供たちは次々と東京へと戻っていきました。
混乱の中、「さようなら」を交わしたかどうかさえも分からない帰還だったでしょう。
東京へ戻ったと言っても、どこの家も焼かれてしまっていて、そこには何もない焼野原が広がり、バラック小屋での新生活の始まりだったのです。東京だけではなく、日本中の都市が焼き尽くされた敗戦でした。
それでも子供にとって、親兄弟と暮らせる幸福感は大きかったと思います。

……しかし、一方ではそんな子供たちばかりではありませんでした。
会いたかった両親や、まだ乳飲み子だった弟や妹までもが焼け死んでしまい、”戦争孤児”となってしまった子供たちは戦後12万人もいたとされています。
この一行を記すだけでも涙が溢れます。
現実を知らされた時のショックや悲しみは、子供たちにとってはいかほどだったことでしょう。日本中の都市で「一般市民」までもが焼夷弾で、核爆弾で焼き殺された事実は、紛れもない歴史の1ページです。

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1944年、戦況思わしくなく、日本の本土にまで爆撃機が飛来することを予測した政府は、都市部の子供たちを農村に避難させることを決めました。それが学童疎開です。
長野県では、東京都の3万人の児童を集団疎開先として受け入れることにしました。伊那谷では、上伊那郡だけでも3千人規模の学童を受け入れたと推測できます。当時は行政の区割りが全く違いますが、現代で言えば駒ヶ根市と周辺の町村には1,000人ほどの小学生が急に増えたわけで、小学校ごとには、クラスに5人~10人の疎開してきた子供たちがいたことでしょう。
お寺や旅館を宿舎として、親元を離れた子供たちは寄せ合うような避難生活を始めます。

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疎開経験のあるご高齢者は、誰もが黙して多くを語らないと感じたことはありませんか?
木曽に疎開をしていた有名な方を駒ヶ根にお迎えした時、中央アルプスを眺めながら「俺はあの山の向こうに疎開してたんだよ…」とだけおっしゃいました。有名な話なので存じていましたが、「そうでしたか…」とお答えしても、その先の言葉は出てきません。
疎開とは、子供にとってはあまりに辛く、厳しい毎日だったことは察するに余りあります。
疎開の子供たちは学校へ行くにも弁当など持たしてもらえず、「弁当の時間になると、疎開の子供たちはサーっとどこかへ行っちまうんだよ。」と、伊那谷のご年配の多くの方が、まず先にその話を語ります。
戦時中は、いくら農村と言えども食糧事情は困難を極めていた時代です。
そんな暮らしながら、お腹を空かせた子供たちが親元へ宛てた手紙には、「こちらでは、秋には栗やキノコがたくさん採れる」などと記し、子供なりの心配をかけまいとする気遣いが、残された紙面からは読み取れます。

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残念ながら、長野県に疎開していた子供たちの多くが、お亡くなりになられる時代にあります。
戦争孤児となられた12万人の戦後とは、どの様な人生だったのでしょうか?
高度経済成長の恩恵に授かり、幸せな家庭を築けた人生でありましたように…そう、祈らずにはいられません。

大人になってから、この景色を見るために再駒してくれた学童疎開の子供たちはどれほどいたのだろうか?

移民政策と駒ヶ根市

ゴミの日は、ビールの空き缶が多めの駒ヶ根です。

さて、世界中で社会問題化している移民政策。
日本でも「石破の移民政策」などとの言葉が飛び交います。
しかし、日本政府は表向きは「移民政策」は行っていないと言い、AIにそれを尋ねてみると、「日本は移民大国です」と答えてくれます。
何じゃそりゃぁ!。そうです、もうすでに駒ヶ根市は、「移民問題」の渦中にいるのです。

5月頃、長野市や松本市の山合いの住宅に狙いを定めた強盗事件が起こりました。犯人はベトナム人です。彼らはいったい何者なのでしょうか?
毎年のように、山梨県内の果樹園から、収穫前の「桃」や「ぶどう」を大量に盗んでいたのも、ベトナム人集団でした。
なぜ我々の周囲には、それほど多くのベトナム人がいるのでしょうか?

冒頭の通り、日本政府は表向き「移民政策」を行ってはいません。
ところが、5つの省庁で外郭団体「JITCO」を創設し、「技能実習制度」なるものを発足。その目的は、日本の労働力不足を補うためにアジアの若者を入国させる手段であることから、AIも、この制度を実質移民政策と認識するようです。

制度上では、レタスの収穫や魚の卸し作業も、広義において「特定技能」として認められ「在留資格」が下りるので、技能実習生らは、人手不足にあえぐ全国の企業で、あちらこちらの工場・農村で働いています。その人数たるや全国に45万人以上、これは長野市の人口よりも多く、満員の東京ドーム9試合分の観客数に匹敵します。
当然ながら、駒ヶ根市の複数の企業でも、男女問わず、アジア各国から来日した技能実習生が働いています。

さて、日本政府が「移民政策ではない」とする根拠ですが、「技能実習生」は最大5年間の「技能実習期間」が終わると、帰国しなければなりません。大概は3年間で帰国します。
即ち、「帰ってもらう前提なのだから移民ではない」としています。
でも、帰っても、新しい実習生が毎年入れ変わりに入ってくるのです。

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では、悪事を働いたベトナム人にスポットを当ててみましょう。
彼らは元々、「技能実習生」として日本へ来たものと思われます。
川口市のクルド人の様に、観光目的で来日してから「難民申請」→「日本に居座る」手段もありますが、難民申請者は「人権」の名目で守られ、しかも労働も認められるため、彼らベトナム人の行動からすれば、技能実習生逃亡者だと容易にわかります。

技能実習生は、日本行きを斡旋してもらう為に、現地で100万円ほどの借金を抱えて来日すると言われています。
ところが日本では、(制度上の)最低賃金で従事し、夢見たほどに稼げる訳もなく、実習期間満了で帰国する時には無一文で帰国する者も少なくありません。
中には、早々に働き先の企業から逃亡する者も少なからずいるのです。

逃亡した瞬間から、彼らは「不法滞在者」であり「犯罪者」です。
日本語も不自由であれば、ベトナム逃亡者仲間で身を寄せるでしょう。そんな者たちが食いつなげる筈がありません。家畜を盗み焼いて食べ、農作物を深夜に盗んで横流しをして食いつなぐのです。
稀に、「可哀そうだから」との理由で、不法滞在者にアルバイトをさせる飲食店経営者もいますが、その経営者も「不法就労助長罪」に罰せられます。

行き詰まった不法滞在者たちは、とうとう、人目につかず、防犯意識の緩い山合の民家に押し入ったという事でしょう。
ニュースにならないだけで、他の各県でもこうした不法外国人による強盗致傷事が起こっています。

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ベトナム人ばかりを悪者に書きましたが、あくまでも犯罪を犯した者たちが対象なのでお許しください。
真面目に働く若者の方が圧倒的に多いのは紛れもない事実ですが、 ① 労働力不足に頭を悩ます企業は、この技能実習制度を利用するしかないのが現状であり、 ② その中には逃亡して、犯罪に手を染める者が一定数いるのも現実であり、 ③ 彼らの犯罪手口は、日本人の常識をはるかに越えた異常さであり、 ④ 監理責任があるはずの入国管理局でさえ、地方の不法滞在者の捜索まで手が回らないのが実情です。

いよいよ、長野県の山合いの民家に押し入った外国人強盗事件のニュースに触れ、「よもや、駒ヶ根でそんなことは起こるまい」などと呑気に構えるのは、もう捨て去るべき時代が来ていると感じています。

伊那谷は果物狩りのシーズン中です!

あるぷす怪談「山の怪」

猛暑に耐える駒ヶ根です。

真夏のうちに、不思議体験の一つもお聞きいただこうと思います。
少々、駒ヶ根市や伊那谷の話題からは外れる内容となりますことをお許しください。もしご好評ならば、またいずれかの機会に、他の体験話もお話しするといたしましょう。

(山の怪 その1)

駒ヶ根市Aさん一家は、家業が駒ヶ根で本格化したことにより、伊那市の山里から移住してきました。まだ伊那市で暮らしていた子供の頃の話。兄弟3人は父親のクルマに乗せられて、山奥にある神社というか、神様の祠というか…そこの様子を見に行った帰りの事だったそうです。

夕暮れになり、親子のクルマは山を下り始めました。
ところが、山道を下っているにもかかわらず、堂々巡りを繰り返していて、なぜか山から下りられません。さっきの場所に戻って来てしまうのだそうです。
父親は「おかしい、おかしい、こっちのはずだけどな…(汗)」焦りを隠しません。山の中はすっかり暗くなり、まだ小さかった末っ子の弟は「おっかない」と言って、ずーっと泣いていた。そんな不思議話を聞かせてくれました。

「狸にでも化かされたのかねぇ…」
話を聞いた時は、そんな感想でした。
しかし今になってみれば、もしかしたらその神様とやらはお稲荷様で、「狸」ではなく「狐」に化かされたのではないか?
数年後にそう想える出来事を、今度は私自身が体験します。
~下記へと続く~

(山の怪 その2)

それから7~8年後の筆者本人。計画性のない若者が、当てのないドライブに出かけています。長野県を北上し、志賀高原に達した頃にはすっかり深夜。睡魔に取りつかれているにもかかわらず、クルマは越えなくても良い渋峠を越え、草津温泉へと下ります。居眠り運転にも近い状態のまま、我に返った場所は「榛名山」山頂の「榛名湖」湖畔でした。

焦りました…。いくらナビが無い時代とは言え、普通に広い道を行けば、榛名山に上ることはないでしょう。
軽井沢方面を逃したとしても、国道は群馬県前橋市か高崎市へと向かいます。「榛名湖?」彼方に見える関東の夜景を左に見ながら「帰りの方角は右」と、自分に言い聞かせています。

ほどなくT字路に突き当たりました。「よし、帰りの方角は右…」
ところが、看板は左の方角を差しています。
「?」… 疑ったところで、看板の方が正しいことは明らかです。
その通りに左折して約40分間ほど運転したでしょうか。ちょっと時間がかかり過ぎやしないかと気づき始めた頃、T字路に行き当たります。
「…何か、おかしい!」そうです、このT字路は先ほどのT字路です。なんと戻ってきてしまっているのです。
眠気のせいで、きっとどこか、途中にあった右折を見落としたに違いないと思い直して、再び左折。ところが数十分後、またもや同じT字路に戻ってくるのです。

考えてもみてください。看板通りに進んでいるのですから、今頃は市街地に下りていなければなりません。なぜ、山から下りられないのでしょう?

結局、3度目は看板を無視し、意を決して右折。ようやく朝になって駒ヶ根へ帰宅できたという体験です。
榛名山中をぐるぐると堂々巡りをしている最中、なぜか周囲が夜霧に覆われていたのは関係があるのでしょうか?

後日になってから、「榛名山」山頂には立派で有名なお稲荷様の神社があることを知ります。
あの時、狐様は深夜「丑三つ時」の私をもて遊んだのか?
はたまた何かを戒めたのか?…その答えは今も謎のままです。

五穀豊穣の神様「稲荷大神」(画像:中川村望岳荘上の稲荷神)

 

7月5日大災害説は「エンタ―テイメント」

7月5日は平穏無事だった駒ヶ根です。

「7月5日」の大災害説によって、むしろ長野県や駒ヶ根市は得をした側でした。稼ぎ時の夏シーズン、レジャーへ向かう先が山岳方面になったのは間違いはなく、観光産業を生業とする駒ヶ根市にしてみれば「ありがた山の寒がらす」でございました。

先日、東京都心は六本木界隈の蕎麦屋さんで「ソースかつ丼」のメニューを見つけました。
今回の長野県旅行でも、駒ヶ根名物「ソースかつ丼」を口にされた方も多かったでしょうから、またこうして本場のソースかつ丼の味覚体験者が増え、そして東京へおみやげ話を持ち帰っていただければ、六本木の蕎麦屋さん以外でもソースかつ丼の輪が広がるっていう寸法です。
重ね重ね、今回の「エンターテイメント」は駒ヶ根市にとっては追い風でした。

(エンターテイメント)

さてただいま、今回の「大災害説」のことを「エンターテイメント」と申しました。
マスコミの皆様はこれを「SNSによる科学的根拠のない陰謀説、嘘・デタラメ」と称して、一刀両断にされました。ところがこれの本質は、約1年間に渡る「エンターテイメント」だったことを見誤っておられるのではないかと思います。

オカルトファンから端を発したこの一件は、ユーチューバ―が食いつき、芸人が話術で話を拡げ、そこへ霊能力者やジャーナリスト、はたまた物理学者や大学教授、寺の住職までをも巻き込んでの一大「エンターテイメント」に発展したものです。
100人に5人が興味を持ったと仮定しても、実に622万人のマーケットを相手にしたエンターテイメントビジネスだった為、再生数も伸びるは、収益も上がるはで、大いに盛り上がった次第です。

(社会が不安定な写し鏡)

オカルトファンのみならず、思いがけず、一般の人々までをも騒動に巻き込んだ理由は、日本に満ち溢れる不安心理の表われでしょう。
阪神淡路、東北(地震・津波・原発)、能登半島と、現代日本人は辛い自然災害を経験しました。もうこれ以上は乗り越えられないのではないか?と、誰もが災害に怯えています。この一件が過剰に熱を帯びてしまったのは、今の日本社会が不安定で脆く、今にも心が折れてしまいそうな心理状況、その「写し鏡」だったように思います。

(もはや、人々の行動の源泉はSNS)

もはや、SNSが人々の生活に浸透しきっていることが浮き彫りになった今回の一件。その牽引役はYouTubeでした。
「日付を特定した予言など当たらない」と、誰もが理性的にそう思いながらも盛り上がって楽しんで、ちょっと不安に包まれたり、長野県へ旅行したり、駒ヶ根でソースかつ丼を食べたり、空のペットボトルに水を詰めて流しの隅にしまったりしたように、人々の行動の源泉は、SNSが中心的な役割を担う時代です。

TOYOTAの広告費もテレビからSNSへと移っているそうですから、それはとても自然な流れです。しかし、そんな変化する社会構造を許せない方々がいて、「SNSを規制すべきだ」とか言い、スマホをいじる国民をまるで「馬鹿扱い」していることも、これまた多くの国民がSNSから情報を得ているのです。


駒ヶ根ソースかつ丼「すが野」 TEL 0265-96-7701 菅の台バスセンター上

「天竜川」名称の歴史

梅雨入り目前の駒ヶ根です。
未曽有の豪雨災害である、昭和36年の「三六災害」を決して忘れないように、河川の警戒が必要です。

(水害の歴史)
日本書紀によれば、飛鳥時代の持統天皇5年(691年)、季節外れの長雨による水害に頭を悩ました朝廷は、天候回復の祈願をするようにと、下記の神社に使者を遣わしたと記されています。

①龍田風神(奈良県の龍田大社=風の神様)
②信濃の須波(スワ)の神=長野県の諏訪大社(天竜川の水神様)
③信濃の水内(ミノチ)の神=長野県の善光寺付近の水内神社(健御名方富命彦神別神社・千曲川の水神様)

朝廷のお膝元の、奈良の龍田神社にて風の神様を鎮め、諏訪大社では天竜川の水神様、水内神社では千曲川の水神様を祈願させていることから、信濃(長野県)の二大河川の水害が、当時から朝廷を悩ましていたことが推測できます。

(名称の変遷)
ところで、伊那谷の中心を流れる我々の天竜川は、いつの時代から「天竜川」と呼ばれるようになったのでしょうか?
「日本書紀」に続く国の編纂歴史書の第二段、『続日本紀』(しょくにほんぎ)に、その手掛かりがあります。

『続日本紀』には、遠江国(今の静岡県の中西部)の『麁玉河(荒玉河=あらたまがわ)が、霊亀元年(715年)に水害を起こした』と記述されています。これは天竜川のことであると考えられ、平安初期には「あらたまがわ」と呼ばれています。激流に洗われた大きな玉石だらけの天竜川ですから、「荒れた玉の川」と呼ばれていたのでしょう。
その後、平安時代中期~後期になると、「広瀬川」へと名称が変わり、さらに鎌倉時代になると「天(あめ)の中川」と呼ばれたことが分かっています。
川裾が広がる下流の様子から「広瀬川」と呼ばれたり、武士の時代には領地を明確にする必要から、「天(高い所)から流れて来て、三河と遠江との領地を真ん中で分ける川」という意味で、「天の中川」と呼ばれたのだと考えられます。

(あめのながれ)
本題である、「天竜川」と呼ばれるようになった時代を探ることにしましょう。
時代の変遷と共に「麁玉河」や「広瀬川」「天の中川」との名称であったと話しましたが、実はそれらとは別に、畏敬の念を込めた別の呼び方が、人々の中には浸透していたようです。それは、「あめのながれ」。どうやらそこにヒントがありそうです。

諏訪湖が源流の天竜川ですが、水源を辿ればそこは八ヶ岳や霧ヶ峰。途中から中央アルプス・南アルプスからの支流が流れ込みます。
つまりは、一番天に近い信濃に降った雨が、海へと流れ出るこの川は「あめのながれ」であると。誰とはなしに、自然崇拝的な畏れの念から「あめのながれ」と呼ばれていたものと思われます。

漢字が使われるようになると『天流川』と書かれるようになり、音読みに転じて「てんりゅうがわ」へと変化し、名称として確立した説が最も有力と考えています。
「音読み」が普及したのは、仏教が爆発的に普及した鎌倉時代と重なることから、「天流川(てんりゅうがわ)」の名称で確定された時代とは、今から700年~800年前頃だと推測できます。
そこからさらに「流」の文字は、諏訪大社の水神様に氾濫を鎮まるようにお祀りしてきた歴史から、必然と「竜」の文字へと変化したと考えられます。

(正体は竜)
200m下るごとに1m下がる急傾斜の天竜川は、その落差を活かした発電所建設で電力を生み、日本の経済成長を支えてきました。灌漑用水に使われ始めると、大量の米を増産し、人口増加を支えました。河原の豊富な玉石は、あちらこちらの石垣に転用されてインフラを発展させ、堤防工事に活用して治水事業に役立ちました。昭和期に入ると、釣り客や「天竜船下り」などの観光資源ともなりました。
こうして昔から、天竜川と伊那谷の人々は折り合いを付けて暮らしています。
ただし、ダムや堤防で天竜川を封じ込めた気でいる人間ですが、相手は「竜」であることを決して忘れてはいけません。梅雨前線が停滞すれば、現代でも「あめのながれ」には逆らえないのです。

梅雨時期、渓谷を埋め尽くすまでに増水した天竜川(吉瀬ダム付近)

ちょこっと駒ヶ根に住んでみた(仮)

2025年のゴールデンウィークが終わった駒ヶ根です。
さて、ゴールデンウィークを利用して、Amazonプライムでドラマを見たのです。「ちょこっと京都に住んでみた」という作品。
「京都に行ってみたいな…」おぼろげに想っていたところへ、このタイトルが目に飛び込んだことが閲覧のきっかけです。
京都の町家で一人暮らしをする叔父さん(近藤正臣)のところへ、東京の姪っ子が泊まりに来た設定で始まります。

姪っ子は、京都人の叔父さんから「お使い」を頼まれることでストーリーは進みます。お使い先の店々は、京都人しか知らないような創業100年超えの老舗店ばかり。それらを巡っては、東京人の姪っ子が、京都人の暮らしの奥深さを発見していくという構成です。

有名観光地とは無縁の日常のストーリー展開、しかもごく限られた出演俳優とセリフの数。姪っ子が訪ねる店舗でのやり取りも、ほぼアドリブで進行します。

*** ちょこっと駒ヶ根に住んでみた(仮)***

そうして数日間をかけ、シリーズ1~2を全て見終わった後、こう思ったのです。「これ、駒ヶ根市が『ちょこっと駒ヶ根に住んでみた』を制作したら良いのに…」。
行政によるSNS発信やYoutube発信は必要不可欠と言われながらも、極めて安価で出来る情報発信のはずが、実際にはどこの市町村も成果を挙げられてはいないように感じます。

あくまでもYouTube動画のクオリティで良く、むしろ高校の映画製作同好会レベルの感じが好印象なイメージがありますが、皆様はどう思われますか?費用をかけた一本のPR動画が、視聴回数さえ伸びない行政モノが多い中、コンテンツで勝負するシリーズ化や、ドラマ仕立てのストーリー展開は良い方法だと思います。
例えば、駒ヶ根に暮らすおじいちゃんの家に、都会から若い孫が数週間暮らすことになったと設定して、数本の動画を作ってみちゃぁいかがでしょう?べらぼうな蔦重も、他よりおもしれぇコンテンツが重要だと教えてくれています。

高速バスでやって来た孫が、おじいちゃんの軽トラを借りて駒ヶ根市内のあちらこちらへお使いに回ります。
日常で我々が目にしているアルプスを、都会の若者の目を通した映像で写したり、方言丸出しの駒ヶ根の人々との素朴な会話があったり、ストーブの灯油がすぐ切れる生活感や空気感を伝える。移住を希望する人たちにとっては、駒ヶ根に対する愛着が猛スピードで沸くと思うのです。

*** ドラマのその後… ***

京都を旅したいと心の隅に想っていた私が、ドラマを見終えて起こした行動は、京都の中古物件探し。
駒ヶ根を好きになってくれれば、同じような行動が日本中で起こることも期待できます。

「それで、京都に良い物件は見つかったかって?」それが、い~物件を見つけたんです。京都御所に近い、鴨川に面した高級低層マンション。
ただちょっと、値段が読めないのです。
¥1300,000,000ーて、いくらなのか?読める方、教えて下さい。
駒ヶ根の、数百万円程度の「空き家物件」に慣れてしまっているもので…。

田んぼの水温む(駒ヶ根市下平)

ヤマトタケルが駒ヶ根に来た! 大御食神社と小町谷氏

前回のブログは、「伊那」の語源は下伊那郡の阿智神社の「イナ」にあるというお話でした。
天孫系の神である「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」が信濃に入り、昼神の地で「阿智氏」を名乗り、亡くなられた磐座の巨石を「イナホラ(去洞)」と呼んだことが語源であるとご紹介しました。
さて今回のブログにはもう一人、景行天皇の皇子・かの有名な「日本武尊(ヤマトタケル)」の登場です。

…その前に、少しだけ話を脱線しておきます。
先日、上伊那郡で行われた新築前の「地鎮祭」の写真を拝見しました。
驚いたのは、お祀りする土地の神様は「天八意思兼命」だったことです。
2,500年後の現代でも、伊那谷の土地神様の名は、「天八意思兼命(オモイカネノミコト)」なのだと学び直した次第です。

話を戻して、「天八意思兼命」が鎮座した「昼神」の地名の由来です。
ご年配の方は、三冠王「落合博満」の自主トレの地として「昼神温泉」をご存じでしょう。昼神は古くから温泉地であったわけではなく、中央自動車道のトンネル工事の最中に湧き出た温泉がもたらした温泉街と言われています。
ところが、「昼神」の地名は古代からあるのです。
「天の岩戸」に隠れてしまった「天照大御神(アマテラスオオカミ)」を、外に連れ出した知恵者だった「天八意思兼命」は、”闇から昼を取り戻した神”として、「昼神」とも呼ばれており、そして信濃へ入植した土地もまた、「昼神」と呼ばれていたのです。

昼神にはこんな逸話もあります。
「日本武尊(ヤマトタケル)」が東征からの帰途、昼神の地で「ヤカラ」に絡まれた際、噛んでいた「蒜(ひる)=にんにく」をそいつらに吐きかけたところ、「クセ―!」と言って退散したことから「蒜(ひる)を噛んだ神=昼神」だとも言われています。
この逸話に信憑性はありませんが、「日本武尊」の素性からすれば本当にあった話だとも思えますし、何よりも東征の帰途、「日本武尊」が昼神を通ったのは事実です。
今回のブログの核心は、昼神を通過する直前の「日本武尊」の行程に迫ります。

*** 阿智氏の別裔/小町谷氏(赤須彦)***

大御食神社(おおみけじんじゃ・駒ヶ根市)の歴史に詳しい方ならばおわかりでしょう。そう、昼神を通過する直前まで、「日本武尊(ヤマトタケル)」は駒ヶ根市に滞在していました。
もてなしたのは小町谷氏。後に大御食神社となる場所に幕屋を建てて、数日間に渡りもてなしたとされます。

大御食神社の社伝を現代語訳すれば…”日本武尊が東征を終えて信濃の国・赤須の里を通りかかったとき、赤須彦(アカツヒコ)という者が、立派な杉の木の下に仮宮を設け日本武尊を丁重にもてなした。
「汝は誰ぞや」と問われて答えるには、「私は、阿智神社にお祀りする天八意思兼命の子孫・阿智氏から分かれた子孫で、この地で小町谷氏を名乗る、赤須彦と申します」と言った”…とされています。

記述からは、「日本武尊(ヤマトタケル)」が「赤須彦/小町谷氏」と偶然出会ったみたいな印象を持ちますが、恐らく「日本武尊」は「イナ」の地を目指し、小町谷氏も数日前から待ち構えていたのではないかと推測しています。
そもそも、天孫族の有力な祖先神である「天八意思兼命(オモイカネノミコト)」が信濃で阿智氏を名乗ったなどは周知の事実。高崎から軽井沢、そして出雲族のいる諏訪を通過する間は怖いけど、天孫族の支配地「イナ」まで辿り着けば、もうこの旅は安心だとの思惑があったことでしょう。
小町谷氏が出迎え、ここはもう「イナ(伊那)」だと知った「日本武尊」にとっての駒ヶ根での数日間は、大きな安堵感に包まれ、疲れがどっと出たのかもしれません。

*** 草薙の剣 ***

あまり語られませんが、この時に日本武尊(ヤマトタケル)は「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を携行していたことにも触れておきましょう。
名古屋市の「熱田神宮」の御祀神であり、天皇家の「三種の神器」である「草薙の剣」。
度重なる出兵にホトホト疲れ果てていた「日本武尊」。父である景行天皇から疎まれる辛さを、叔母である伊勢の「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」に打ち明けます。元気付けようとした「倭姫命」は、東征前の「日本武尊」に対し、スサノオのヤマタノオロチ退治にまつわる「伝説の剣」を持たせています。

正式名称は「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と言いますが、「日本武尊」が静岡辺りまで来た時、周囲一帯を焼かれて火攻めに遭います。
焼き殺されそうになったこのピンチに、「天叢雲剣」で一帯の草(葦)を薙ぎ倒して難を逃れたことから「草薙の剣」と呼ばれています。

伝説の東征の帰途、「草薙の剣」を持った「日本武尊」は、弊社「あるぷす不動産」前の古道を通り現・大御食神社へ。数日間を駒ヶ根市に滞在し、赤須彦に礼を述べると共に「御食彦(ミケツヒコ)」の名を授けて出発。
翌日には昼神でヤカラに絡まれるも、強者らしく蒜を吐きかけるだけで追い払い、神坂峠を越えて行ったのです。

「日本武尊(ヤマトタケル)」の死後、「小町谷氏」は賜った名前「御食(みけ)」を冠した大御食神社(おおみけじんじゃ)を創建し、代々「社家」として日本武尊をお祀りしました。
阿智氏は途絶えたとされる一方で、「小町谷氏」は現代でも家系は存続しています。祖先神を「天八意思兼命」とすることから、もし男系で存続しているのであれば、天皇家にも匹敵する血統の古さです。
「小町谷氏」の名は、文字こそ変化しましたが「小町屋」の地名で今も駒ヶ根市に存在し、「JR小町屋駅」として駅名にもなっています。

画像:大鳥神社(大阪府)の日本武尊像/photo.あじのすけ氏

「伊那」の意味/「言霊」を探る旅

南北90Kmに及ぶ広域な伊那谷。その「伊那」とは「伊那市のことだよ…」と多くの人がそう思い込んでいます。
…実はそうではありません。
今回は、「伊那(イナ)」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探る歴史旅です。

飯田市を中核都市とする飯田・下伊那郡の人たちにとって、自分たちの場所が「伊那?」それは全く腑に落ちません。
そりゃそうです。飯田は古くから発達した城下町であり商業都市であり、小京都と呼ばれる碁盤目の街並みの美しさと人口の多さ。しかもリニアが通ります。今も昔も飯田市が、伊那市よりずっと格上なのは誰の目にも明らかです。
とは言うものの、鉄道の駅名が示す通り、下伊那の奥深く、静岡県境にまで「伊那」の名称が残されている違和感を、下伊那の方々はお持ちでしょう。

~下伊那郡のJR駅名の数々~
・伊那小沢駅( いなこざわ) 下伊那郡天龍村
・伊那八幡駅(いなやわた) 飯田市八幡
・伊那上郷駅(いなかみさと) 飯田市上郷
・伊那大島駅(いなおおしま) 下伊那郡松川町

ところがです。どうぞ下伊那の皆さん、長年の溜飲を下げてください。
「イナ」の語源となったその場所は「伊那市」ではなく、皆様がお住まいの下伊那郡に存在します。

歴史的にも「伊那市」が広域な地域を支配したり、影響力が強かった事実はありません。
今の伊那市は、旧伊那村がその名の発祥で、伊那部村と合併したりして現在に至ります。ところが、現在の駒ヶ根市東伊那も、合併する以前までは上記とは別の「伊那村」を名乗っていたので、「伊那」とは古くから、このあたり一帯の総称だったと考えられます。つまり、伊那にある村だから伊那村だったり、伊那部村だった…。

歴史的にも、京都や幕府・明治政府から見た「伊那(伊奈)」とは、伊那市を指し示した事実はなく、現在で言う「伊那谷」広域のことであったことがわかります。その証拠として、
① 武士の律令制度の時代まで遡り、「伊那領」や「伊那郡」と呼ばれていた時代でも、役所・役人が置かれたのは伊那市ではなく、それは飯田市座光寺でした。
② 明治政府が廃藩置県で置いた「伊那県」も、県庁は飯島町の飯島陣屋だったのです。

我々は、「伊那谷全域を指す」意味で使われた「伊那」という地名を、勝手に「伊那市」の事だと思い込んでしまっていただけなのです。
「歴史上の伊那」と「行政名の伊那市」とは全くの無関係であり、古代からずっと、飯田を含む「伊那谷」の広い地域一帯を「イナ」と呼んでいたのです。

では、いよいよ「イナ」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探らねばなりません。
注意すべきことは、どんな漢字が当てられたかは古代の謎解きには全く必要がない事です。漢字は「言葉」を残すために、ずーっと後の4~5世紀頃から利用されるようになったに過ぎません。
それよりも重要なことは、古代から発音してきた「イナ」の言葉の意味は何なのでしょう?

その答えは、下伊那郡阿智村にあります。

そこは昼神温泉から園原へ向かう途中の小さな「阿智神社」。
方向を返せば、京都から東山道を行き、美濃から難所の「神坂峠」をようやく越えた先が、信濃の玄関口「園原」でした。その里を下った地に「阿智神社」があります。平安時代にまとめられた「延喜式」には既に記載されていたほどの相当に古い神社です。

由緒によれば、高天原(たかまがはら)随一の知恵の神とされる「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」が天から信濃にやってきて、この地で「阿智氏」を名乗って鎮座されたとあります。
興味深いのは、天孫族である阿智氏が、出雲族である諏訪氏に「睨み」を利かす目的で昼神の地に駐留したと伝わる点です。

さて、阿智神社の境内には、菱形の自然石=「磐座(いわくら)」が祀られています。「磐座」とは神が宿る石のことであり、この石は太陽信仰に基づき、冬至の太陽の位置に合わせて東西南北を指すように置かれた古代自然信仰の遺跡でもあります。
そして、この「磐座」こそが「天八意思兼命」の神上がり(神が天に昇られた)の場所とされ、「イナホラ(去洞/辞洞・この世を去るために入る洞)」と呼ばれてきたと言われています。
つまり、「伊那」は、この「イナホラ」の「イナ」が語源であり、「いなくなる」が言葉の意味(言霊/コトダマ)だったのです。

おそらく、「イナ」は「イヌ」と同義語でしょう。
「イヌ」とは、淡路島周辺の人々が「帰る/いなくなる」という意味で使う方言です(俺はいぬぞ!=俺は帰るぞ!)。
不思議に思うのは、淡路島は「伊邪那岐(イザナギ)」「伊邪那美(イザナミ)」から生まれた島であり、二柱の神の名前にも「伊・那=イ・ナ」の言霊が入っていることにも関連があるように思います。きっと、それぞれの音にも、意味/言霊は隠れているのでしょう。
古代日本の「言霊」を探る旅に、終わりはないようです。

阿智神社奥宮 磐座(Wikipediaより) ~ここが「伊那」の語源~

箱根のタスキをつなぐ、伊那谷ランナーたち

2月11日「建国記念日」の駒ヶ根です。
「そもそも、建国っていつ?」…それは紀元前660年の今日、初代「神武天皇」が即位した日から始まります。したがって今年2025年の日本は、建国から2685年が経ちました。
アメリカ合衆国は、独立宣言から建国249年。中華人民共和国は、1949年の建国から76年です。

豪雪のニュースが多い中、それでも立春を過ぎ、暦は新生活へ向けて加速しています。我らが「箱根駅伝のスター・伊藤大志君」もいよいよ社会人になります。

2025年のお正月の箱根駅伝を少し振り返っておきましょう。
今年も、伊那谷出身のランナー3人が晴れ姿を披露してくれました。

箕輪町出身の駒澤大学3年・山川拓馬君は例年通りの箱根往路最後の山登り5区。懸命に坂道を登る姿には、少年から大人の顔に変わった成長が感じられました。
飯田市出身の創価大学2年・小池莉希君は復路の最終ランナー。日の丸がはためく銀座の大観衆の中を走る姿には、きっとご両親も涙されたことでしょう。
そして、我が駒ヶ根市出身の早稲田大学4年生主将・伊藤大志君は最後の箱根。鹿が駆け抜けるようなバネの効いた走りで、復路7区・小田原~平塚の海岸線を区間4位の速さで走りきりました。

伊藤大志君を本ブログで最初に取り上げたのは、佐久長聖高校時代に早稲田大学進学が決まった頃。この先4年間、箱根でその雄姿が見られると書きました。
残念ながら3年時は、インフルエンザによって欠場を余儀なくされましたが、ラストイヤーの今年は有終の美を飾ってくれました。

ものすごい1年生が入部してくると言われて、早稲田へ進学した伊藤君でしたが、大学時代は伸び悩んで苦労したようです。
才能に溢れた後輩たちが、どんどん大学に進学してくる焦りもあったでしょうし、何よりも生活環境が大きく変わった影響は走りにも影響を及ぼしたことでしょう。
それでも早稲田の主将まで務め、鳴り物入りで入部したその実力は、十二分にチーム力を押し上げたと思います。

卒業後もランナーを続ける道を選んだようです。この春からは、大阪の「NTT西日本」に勤務します。関西ですと、故郷の駒ヶ根からは遠くに行ってしまう気がしますが仕方ありません。
2026年からは、元旦の「ニューイヤー駅伝」で雄姿が見られるように、まずは出場権を勝ち取れるように活躍されることを祈ります。

こうして伊那谷の箱根ランナーたちは、桃澤大祐選手(中川村・山梨学院大学)、春日千速選手(駒ヶ根市中沢・東海大学)からのタスキが繋がれており、伊藤大志君を経て山川拓馬君、小池莉希君へとリレーされています。これからも続々と、彼らの後を追う箱根ランナーが、駒ヶ根や伊那谷から現れてくれることを念じてやみません。


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