ヤマトタケルが駒ヶ根に来た!。大御食神社と小町谷氏

前回のブログは、「伊那」の語源は下伊那郡の阿智神社の「イナ」にあるというお話でした。
天孫系の神である「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」が信濃に入り、昼神の地で「阿智氏」を名乗り、亡くなられた磐座の巨石を「イナホラ(去洞)」と呼んだことが語源であるとご紹介しました。
さて今回のブログにはもう一人、景行天皇の皇子・かの有名な「日本武尊(ヤマトタケル)」の登場です。

…その前に、少しだけ話を脱線しておきます。
先日、上伊那郡で行われた新築前の「地鎮祭」の写真を拝見しました。
驚いたのは、お祀りする土地の神様は「天八意思兼命」だったことです。
1,700年後の現代でも、伊那谷の土地神様の名は、「天八意思兼命(オモイカネノミコト)」なのだと学び直した次第です。

話を戻して、「天八意思兼命」が鎮座した「昼神」の地名の由来です。
ご年配の方は、三冠王「落合博満」の自主トレの地として「昼神温泉」をご存じでしょう。昼神は古くから温泉地であったわけではなく、中央自動車道のトンネル工事の最中に湧き出た温泉がもたらした温泉街と言われています。
ところが、「昼神」の地名は古代からあるのです。
「天の岩戸」に隠れてしまった「天照大御神(アマテラスオオカミ)」を、外に連れ出した知恵者だった「天八意思兼命」は、”闇から昼を取り戻した神”として、「昼神」とも呼ばれており、そして信濃へ入植した土地もまた、「昼神」と呼ばれていたのです。

昼神にはこんな逸話もあります。
「日本武尊(ヤマトタケル)」が東征からの帰途、昼神の地で「ヤカラ」に絡まれた際、噛んでいた「蒜(ひる=にんにく)」をそいつらに吐きかけたところ、「クセ―!」と言って退散したことから「蒜(ひる)を噛んだ神=昼神」だとも言われています。
この逸話に信憑性はありませんが、「日本武尊」の素性からすれば本当にあった話だとも思えますし、何よりも東征の帰途、「日本武尊」が昼神を通ったのは事実です。
今回のブログの核心は、昼神を通過する直前の「日本武尊」の行程に迫ります。

*** 阿智氏の別裔/小町谷氏(赤須彦)***

大御食神社(おおみけじんじゃ・駒ヶ根市)の歴史に詳しい方ならばおわかりでしょう。そう、昼神を通過する直前まで、「日本武尊(ヤマトタケル)」は駒ヶ根市に滞在していました。
もてなしたのは小町谷氏。後に大御食神社となる場所に幕屋を建てて、数日間に渡りもてなしたとされます。

大御食神社の社伝を現代語訳すれば…”日本武尊が東征を終えて信濃の国・赤須の里を通りかかったとき、赤須彦(アカツヒコ)という者が、立派な杉の木の下に仮宮を設け日本武尊を丁重にもてなした。
「汝は誰ぞや」と問われて答えるには、「私は、阿智神社にお祀りする天八意思兼命の子孫・阿智氏から分かれた子孫で、この地で小町谷氏を名乗る、赤須彦と申します」と言った”…とされています。

記述からは、「日本武尊(ヤマトタケル)」が「赤須彦/小町谷氏」と偶然出会ったみたいな印象を持ちますが、恐らく「日本武尊」は「イナ」の地を目指し、小町谷氏も数日前から待ち構えていたのではないかと推測しています。
そもそも、天孫族の有力な祖先神である「天八意思兼命(オモイカネノミコト)」が信濃で阿智氏を名乗ったなどは周知の事実。高崎から軽井沢、そして出雲族のいる諏訪を通過する間は怖いけど、天孫族の支配地「イナ」まで辿り着けば、もうこの旅は安心だとの思惑があったことでしょう。
小町谷氏が出迎え、ここはもう「イナ(伊那)」だと知った「日本武尊」にとっての駒ヶ根での数日間は、大きな安堵感に包まれ、疲れがどっと出たのかもしれません。

*** 草薙の剣 ***

あまり語られませんが、この時に日本武尊(ヤマトタケル)は「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を携行していたことにも触れておきましょう。
名古屋市の「熱田神宮」の御祀神であり、天皇家の「三種の神器」である「草薙の剣」。
度重なる出兵にホトホト疲れ果てていた「日本武尊」。父である景行天皇から疎まれる辛さを、叔母である伊勢の「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」に打ち明けます。元気付けようとした「倭姫命」は、東征前の「日本武尊」に対し、スサノオのヤマタノオロチ退治にまつわる「伝説の剣」を持たせています。

正式名称は「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と言いますが、「日本武尊」が静岡辺りまで来た時、周囲一帯を焼かれて火攻めに遭います。
焼き殺されそうになったこのピンチに、「天叢雲剣」で一帯の草(葦)を薙ぎ倒して難を逃れたことから「草薙の剣」と呼ばれています。

伝説の東征の帰途、「草薙の剣」を持った「日本武尊」は、弊社「あるぷす不動産」前の古道を通り現・大御食神社へ。数日間を駒ヶ根市に滞在し、赤須彦に礼を述べると共に「御食彦(ミケツヒコ)」の名を授けて出発。
翌日には昼神でヤカラに絡まれるも、強者らしく蒜を吐きかけるだけで追い払い、神坂峠を越えて行ったのです。

「日本武尊(ヤマトタケル)」の死後、「小町谷氏」は賜った名前「御食(みけ)」を冠した大御食神社(おおみけじんじゃ)を創建し、代々「社家」として日本武尊をお祀りしました。
阿智氏は途絶えたとされる一方で、「小町谷氏」は現代でも家系は存続しています。祖先神を「天八意思兼命」とすることから、もし男系で存続しているのであれば、天皇家にも匹敵する血統の古さです。
「小町谷氏」の名は、文字こそ変化しましたが「小町屋」の地名で今も駒ヶ根市に存在し、「JR小町屋駅」として駅名にもなっています。

画像:大鳥神社(大阪府)の日本武尊像/photo.あじのすけ氏

「伊那」の意味/「言霊」を探る旅

南北90Kmに及ぶ広域な伊那谷。その「伊那」とは「伊那市のことだよ…」と多くの人がそう思い込んでいます。
…実はそうではありません。
今回は、「伊那(イナ)」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探る歴史旅です。

飯田市を中核都市とする飯田・下伊那郡の人たちにとって、自分たちの場所が「伊那?」それは全く腑に落ちません。
そりゃそうです。飯田は古くから発達した城下町であり商業都市であり、小京都と呼ばれる碁盤目の街並みの美しさと人口の多さ。しかもリニアが通ります。今も昔も飯田市が、伊那市よりずっと格上なのは誰の目にも明らかです。
とは言うものの、鉄道の駅名が示す通り、下伊那の奥深く、静岡県境にまで「伊那」の名称が残されている違和感を、下伊那の方々はお持ちでしょう。

~下伊那郡のJR駅名の数々~
・伊那小沢駅( いなこざわ) 下伊那郡天龍村
・伊那八幡駅(いなやわた) 飯田市八幡
・伊那上郷駅(いなかみさと) 飯田市上郷
・伊那大島駅(いなおおしま) 下伊那郡松川町

ところがです。どうぞ下伊那の皆さん、長年の溜飲を下げてください。
「イナ」の語源となったその場所は「伊那市」ではなく、皆様がお住まいの下伊那郡に存在します。

歴史的にも「伊那市」が広域な地域を支配したり、影響力が強かった事実はありません。
今の伊那市は、旧伊那村がその名の発祥で、伊那部村と合併したりして現在に至ります。ところが、現在の駒ヶ根市東伊那も、合併する以前までは上記とは別の「伊那村」を名乗っていたので、「伊那」とは古くから、このあたり一帯の総称だったと考えられます。つまり、伊那にある村だから伊那村だったり、伊那部村だった…。

歴史的にも、京都や幕府・明治政府から見た「伊那(伊奈)」とは、伊那市を指し示した事実はなく、現在で言う「伊那谷」広域のことであったことがわかります。その証拠として、
① 武士の律令制度の時代まで遡り、「伊那領」や「伊那郡」と呼ばれていた時代でも、役所・役人が置かれたのは伊那市ではなく、それは飯田市座光寺でした。
② 明治政府が廃藩置県で置いた「伊那県」も、県庁は飯島町の飯島陣屋だったのです。

我々は、「伊那谷全域を指す」意味で使われた「伊那」という地名を、勝手に「伊那市」の事だと思い込んでしまっていただけなのです。
「歴史上の伊那」と「行政名の伊那市」とは全くの無関係であり、古代からずっと、飯田を含む「伊那谷」の広い地域一帯を「イナ」と呼んでいたのです。

では、いよいよ「イナ」という言葉の意味/言霊(コトダマ)を探らねばなりません。
注意すべきことは、どんな漢字が当てられたかは古代の謎解きには全く必要がない事です。漢字は「言葉」を残すために、ずーっと後の4~5世紀頃から利用されるようになったに過ぎません。
それよりも重要なことは、古代から発音してきた「イナ」の言葉の意味は何なのでしょう?

その答えは、下伊那郡阿智村にあります。

そこは昼神温泉から園原へ向かう途中の小さな「阿智神社」。
方向を返せば、京都から東山道を行き、美濃から難所の「神坂峠」をようやく越えた先が、信濃の玄関口「園原」でした。その里を下った地に「阿智神社」があります。平安時代にまとめられた「延喜式」には既に記載されていたほどの相当に古い神社です。

由緒によれば、高天原(たかまがはら)随一の知恵の神とされる「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」が天から信濃にやってきて、この地で「阿智氏」を名乗って鎮座されたとあります。
興味深いのは、天孫族である阿智氏が、出雲族である諏訪氏に「睨み」を利かす目的で昼神の地に駐留したと伝わる点です。

さて、阿智神社の境内には、菱形の自然石=「磐座(いわくら)」が祀られています。「磐座」とは神が宿る石のことであり、この石は太陽信仰に基づき、冬至の太陽の位置に合わせて東西南北を指すように置かれた古代自然信仰の遺跡でもあります。
そして、この「磐座」こそが「天八意思兼命」の神上がり(神が天に昇られた)の場所とされ、「イナホラ(去洞/辞洞・この世を去るために入る洞)」と呼ばれてきたと言われています。
つまり、「伊那」は、この「イナホラ」の「イナ」が語源であり、「いなくなる」が言葉の意味(言霊/コトダマ)だったのです。

おそらく、「イナ」は「イヌ」と同義語でしょう。
「イヌ」とは、淡路島周辺の人々が「帰る/いなくなる」という意味で使う方言です(俺はいぬぞ!=俺は帰るぞ!)。
不思議に思うのは、淡路島は「伊邪那岐(イザナギ)」「伊邪那美(イザナミ)」から生まれた島であり、二柱の神の名前にも「伊・那=イ・ナ」の言霊が入っていることにも関連があるように思います。きっと、それぞれの音にも、意味/言霊は隠れているのでしょう。
古代日本の「言霊」を探る旅に、終わりはないようです。

阿智神社奥宮 磐座(Wikipediaより) ~ここが「伊那」の語源~

箱根のタスキをつなぐ、伊那谷ランナーたち

2月11日「建国記念日」の駒ヶ根です。
「そもそも、建国っていつ?」…それは紀元前660年の今日、初代「神武天皇」が即位した日から始まります。したがって今年2025年の日本は、建国から2685年が経ちました。
アメリカ合衆国は、独立宣言から建国249年。中華人民共和国は、1949年の建国から76年です。

豪雪のニュースが多い中、それでも立春を過ぎ、暦は新生活へ向けて加速しています。我らが「箱根駅伝のスター・伊藤大志君」もいよいよ社会人になります。

2025年のお正月の箱根駅伝を少し振り返っておきましょう。
今年も、伊那谷出身のランナー3人が晴れ姿を披露してくれました。

箕輪町出身の駒澤大学3年・山川拓馬君は例年通りの箱根往路最後の山登り5区。懸命に坂道を登る姿には、少年から大人の顔に変わった成長が感じられました。
飯田市出身の創価大学2年・小池莉希君は復路の最終ランナー。日の丸がはためく銀座の大観衆の中を走る姿には、きっとご両親も涙されたことでしょう。
そして、我が駒ヶ根市出身の早稲田大学4年生主将・伊藤大志君は最後の箱根。鹿が駆け抜けるようなバネの効いた走りで、復路7区・小田原~平塚の海岸線を区間4位の速さで走りきりました。

伊藤大志君を本ブログで最初に取り上げたのは、佐久長聖高校時代に早稲田大学進学が決まった頃。この先4年間、箱根でその雄姿が見られると書きました。
残念ながら3年時は、インフルエンザによって欠場を余儀なくされましたが、ラストイヤーの今年は有終の美を飾ってくれました。

ものすごい1年生が入部してくると言われて、早稲田へ進学した伊藤君でしたが、大学時代は伸び悩んで苦労したようです。
才能に溢れた後輩たちが、どんどん大学に進学してくる焦りもあったでしょうし、何よりも生活環境が大きく変わった影響は走りにも影響を及ぼしたことでしょう。
それでも早稲田の主将まで務め、鳴り物入りで入部したその実力は、十二分にチーム力を押し上げたと思います。

卒業後もランナーを続ける道を選んだようです。この春からは、大阪の「NTT西日本」に勤務します。関西ですと、故郷の駒ヶ根からは遠くに行ってしまう気がしますが仕方ありません。
2026年からは、元旦の「ニューイヤー駅伝」で雄姿が見られるように、まずは出場権を勝ち取れるように活躍されることを祈ります。

こうして伊那谷の箱根ランナーたちは、桃澤大祐選手(中川村・山梨学院大学)、春日千速選手(駒ヶ根市中沢・東海大学)からのタスキが繋がれており、伊藤大志君を経て山川拓馬君、小池莉希君へとリレーされています。これからも続々と、彼らの後を追う箱根ランナーが、駒ヶ根や伊那谷から現れてくれることを念じてやみません。


第101回東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト

赤穂(あこう)と赤穂(あかほ)と忠臣蔵

2025年もあるぷす不動産をよろしくお願いいたします。

さて、投稿している本日は1月13日、旧暦の12月14日にあたります。
そう、「赤穂浪士」討ち入りの日です。

「駒ヶ根市赤穂…」を、「コマガネシ アコウ…」と復唱されることは、市民の多くが経験します。
駒ヶ根市の赤穂(あかほ)は、旧「赤須村」と「上穂村」が合併した際に一文字づつ取って「赤穂村」となったもので、それが現在でも町名として残っているという訳です。兵庫県の「赤穂(あこう)」とは縁があるようで無縁な「赤穂(あかほ)」ではありますが、そんな理由もあり「忠臣蔵」にも愛着が強いのは事実です。
そこで今回のブログは、「赤穂(あかほ)」の町民が、赤穂藩(あこうはん)の殿様を勝手に擁護するといった内容です。

そもそもこの物語は、歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」として演じられたのが始まりであり、しかも赤穂の殿様「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」が、とっても位の高い「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」に切りかかった理由は未だに「不明」とされており、即日切腹させられた罪状は「乱心」とされているのは極めて謎めいた話です。
しかし赤穂藩は、藩主・浅野長矩(あさの ながのり)を始め、家臣一同が曲がったことが大嫌い。そんな家柄から紐解くと、演目とは異なる忠臣蔵の史実が見えてきます。

「万世一系の天皇を中心に、仁政と平和が続く国こそが日本である」
この、儒学者・山鹿素行の教えが染みついた家柄が赤穂藩でした。
したがって、天皇の勅使を江戸城に迎える儀式において、将軍を上座、天皇(勅使)を下座に据えるという無礼な幕府の慣習が許せませんでした。
ところがそれは、訳あって「室町幕府」から続く慣例であり、皇室と幕府の儀式を司る第一人者・室町時代からの位の高い家柄である「吉良上野介」にとっても、どうにも変えられぬ幕府政権の慣習だったわけです。
それでも納得のいかない赤穂藩。1年目は何とかこらえましたが、業績が認められて2年目も接待役を命じられます。
ここで、現代の日本人と当時の武士の違いが現れます。
「一度ならずも二度までも、天皇に無礼な行為は続けられない!」
幕府に曲がった慣習を変えさせるには、自らの「命」と「城」を引き換えに訴えるしかないと、赤穂藩主・浅野長矩は決死の覚悟に出ます。
江戸城内で刀を抜けば切腹は定め。されど、申し開きの場において「勅使下向」の悪しき慣習を改めてくれるように、幕府に直接願い出ようとの覚悟でした。

当初から吉良殿を殺すつもりはありません。
殺そうと思えば武士ですから、短刀の脇差であっても刃を横向きに心臓へ突き刺せば殺せることは心得ています。それをせず、脇差の背の方で吉良殿の額をいくら強く叩いたところで死にはしません。
さて、いよいよ江戸城内は大騒ぎです。事件に及んだ理由はすでに幕府にも知れ渡っていた事でした。しかし、足利将軍・室町幕府からの慣習ですから、徳川幕府でも簡単には変えられません。しかも、この事件の最終責任者は「将軍・綱吉公」にまで及ぶ、幕府の最重要案件になってしまいました。
結果、下された評定は「浅野長矩の乱心」。申し開きの機会さえ与えられずに即日切腹。幕府は「知らぬ存ぜぬ」の立場を貫いたのです。

その後はご存じの通りの「吉良邸討ち入り」。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に四十七名の赤穂浪士は切腹。しかし切腹とは、武士の名誉が守られたことを意味します。
幕府から切腹が命じられた大石内蔵助。その時、使者からは次の事も告げられます。「この一件に鑑み、幕府は100年後に勅使下向を改め、天皇勅使を上座へ。将軍は下座へと席を改めるであろう。」
その100年後、江戸幕府では徳川綱吉公の遺言が実行され、以降は京都からの天皇勅使は上座に着かれるように改められました。
100年の時を経て、赤穂藩の願いは成就したというお話です。

(引用:作家・国史啓蒙家/小名木善行氏Youtube)
https://www.youtube.com/watch?v=gapjzA3KhUk&t=1s

画:「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳。Wikipedia「忠臣蔵」より

過ぎ行く、駒ヶ根の「甲辰(きのえたつ)」

あと、いくつか寝るとお正月を迎える駒ヶ根です。

今年は「甲辰(きのえたつ)」の年で、夢が叶う年・成果が出る年とされていました。色では「甲」は青色を表す年でしたが、皆様にとってはいかがでしたでしょうか?
確かに、大谷翔平君のドジャースがワールドシリーズを優勝したり、まさかの横浜ベイスターズが26年ぶりに日本シリーズを優勝したことを思えば、「青色」の夢が叶った年と言えるでしょう。
従来のメディア報道や組織票を打ち破って当選した兵庫県知事・斉藤元彦氏、名古屋市長・広沢一郎氏の選挙カラーも、共に「青色」だったのは偶然でしょうか?。

「駒ヶ根は何もなかったね」と言うなかれ。
東西を山脈に挟まれた空はどこよりも澄み渡り青く、
2つの山脈は青い雄姿で佇み里を抱き、
闇に包まれる直前の夕暮れの5分間、伊那谷は紺碧のベールで覆われ続けた一年でした。
毎日を様々な青色と暮らし、「辰」である天龍川が伊那谷の中心に横たわる一年間であったことをご報告申し上げます。

来年は「乙巳(きのとみ)」の年で、「成長」「変革」の年回りとされます。色は乙(木)の緑色と巳(火)の赤色。
再就任するトランプ大統領は共和党の赤色がシンボルカラー。リベラル化したアメリカ国家を保守回帰させる意味では「変革」と言えるのかもしれません。
日本でも7月に参議院選挙があります。どうかいつまでも日本は、「赤い日の丸」がはためき、「緑」豊かな、日本人の為の国でありますように…。

最後にあるぷす不動産ブログとしては、都市伝説やオカルト界隈で騒がしい「2025年問題」を取り上げて終わりにしましょう。
これは2025年の7月5日(土)に、フィリピン沖の海底プレートを起因とする大津波が日本に到達し、内陸深くにまで津波被害に遭うという予言の存在です。
詳細は各自でお調べいただくとして、2025年7月5日(土)の長野県内の旅館・ホテル・キャンプ場等はどこも満室で予約が取れなくなるかもしれません☆%#$&¥?!。

反射的に「海がない場所=長野県」と発想できることが、オカルトファンの優れた素質。「土曜日だし、避難がてら信州へ」「何も起きなきゃそれで良し。取りあえずその日は長野へGO!」その、シンプルで素直な発想こそが彼らの取り柄。
皆様、どうぞ7月5日の県内予約はお早めに。その週末、長野県内は都市伝説ファンやオカルトファン、そしてその家族で埋まることでしょう。

今年も、当ブログへ8,000回も訪問していただきました皆様、誠にありがとうございました。
また年明けにお会いしましょう!


冷気に包まれ始めた駒ヶ根市

伊那谷の老人宅にも及ぶ危険性

首都圏近郊の、老人宅を狙った強盗・殺人事件。
これらは遠くの事件ではなく、伊那谷にも起こり得る危険性が潜んでいると考えています。「鍵をかけない不用心さ」や、「隣家まで距離のある犯行のしやすさ」「見知らぬ人でも容易に招き入れてしまう不用心さ」ばかりではなく、伊那谷に潜む危険な予兆は、すでにあちらこちらで起きているのです。

①お年寄りがおかしな商法から買い物をするケース。
かつて、老人を狙った詐欺ビジネス会社「○○ライフ」が存在しました。伊那谷でも、多くの老人が会場に集まる光景を飯島町や辰野町、伊那市などで目にしたものです。ご承知の通り、後にこの「○○ライフ」はマルチ商法や詐欺の疑いで倒産するのですが、今でも心配するのは、会場に出向いたご老人や、商法に乗せられたご老人の名簿はどうなったのか?という不安です。
お年寄りが、おかしな集会へ出かけたり、変な買い物をしてはいませんか?集められた名簿が、闇社会へ流通してしまっているとすれば不安です。

②高齢者が通販で買い物をしたケース。
通販が悪い訳ではありません。そこは誤解なくお願いします。
しかし、何故か「あそこの通販」で買い物をして以来、「屋根にソーラー載せませんか?」や「電気代を安くしませんか?」「スマホを安く買いませんか?」などの電話営業が増えたと感じるケースはありませんか?
あるいは、あなたの家だけに訪問販売がやって来たりしてはいませんか?何故か、隣の家には寄らずに帰っていくのです。
はたまた、犯行前の「下見?」と思われるような不審な車から、自宅を撮影していたりはしませんか?
これらは偶然や思い過ごしかも知れません。しかし、もしもご老人の名簿が社会に漏れていると想定すると、それは「通販に飛びつく客の名簿」→「騙されやすいタイプの名簿」と解釈をされて、名簿が転売されているのかもしれません。
おかしな通販商品を購入した形跡があれば、家族が十分気を付けてあげてください。

驚くことに、強盗・殺人の実行犯は「闇バイト(高額アルバイト)」へ応募した普通の若者だと言います。そんな普通に見える若者が、「狙いを付けた老人宅」へ「水道局の点検です」と称して家の中へ入ろうとする。こういった「偽装訪問」を、伊那谷のお年寄りたちは断る事ができるでしょうか?

若者に貧しい生活を強いる社会は、必ず犯罪率を引き上げます。
ごく一般の若者が簡単に犯罪者に落ちる世の中であり、そして犯罪の矛先をお年寄りに向け、容易く殺傷してしまう日本になり下がってしまいました。
今からでも日本を取り戻す希望は持ちつつも、せめて伊那谷のお年寄りは犯罪から守れるように、地域の皆で気を付けたいと思います。

駒ヶ根市馬場から望む、リンゴ畑と南アルプス

甲州征伐と武田氏滅亡。戦場となった伊那谷

442年前、織田信長は武田氏を滅ぼす総攻撃を行いました。世にいう「甲州征伐」です。この時伊那谷は、織田信長と嫡男・信忠率いる本隊が北上し、武田勢力下にあった私たちの伊那谷は戦場となりました。

1582年(天正10年)、織田信長の本隊は信濃に侵入し、伊那街道(およそ国道153号線沿い)を甲府を目指して北上します。兵力18,000人にも及ぶ大軍勢でした。
それに対し、せいぜい数百名の兵力であっただろう伊那谷の各城にしてみれば、寝返って生き延びるか、討ち死にするかの二者択一です。

寝返ったのは下伊那郡の各城。
信濃へ入った初日に、平谷村/阿智村一帯の豪族・下条氏は織田軍に寝返り。
飯田市手前の「松尾城」小笠原氏も寝返るどころか、狼煙を上げて織田軍の侵攻を手引きします。
飯田へ入ると「飯田城」保科正直も戦わずに高遠城へと逃亡。
武田領の要塞だった松川町の「大島城」まで北上した際にも、武田勝頼の叔父・信廉でさえ、甲斐国へ逃亡してしまいました。
こうして、事実上戦わずして下伊那郡の戦線は崩壊してしまいました。

無抵抗のまま進軍をしてきた織田軍勢でしたが、一転、上伊那郡に入ると戦況は変わります。
大島城から5kmほど北上した先には「船山城」(松川町上片桐/中川村片桐)が現れます。築城は片切氏と呼ばれる信濃の名族で、今でも「片桐」の名は地名や苗字に色濃く残っています。
この船山城から高遠城までは、現代の行政区分で言う「上伊那郡」へと地域が変わり、地理や気候風土、話し言葉にも変化が表われますが、何よりもこの時、上伊那勢は戦う(=討ち死にする)側を選択したのです。

そうして虚しくも「船山城」は落城。400有余年の歴史に終わりを告げますが、次に待ち構えるのは、北へ6Kmの飯島町七久保の「北山城」。
「北山城」を守っていたのは、船山城主の家臣である上沼氏でした。
されど北山城も落城。
ところがこの戦では、敵味方合わせて1,000体もの戦死者が出たとされます。数の多さから推測すれば、船山城落城後も、命ある片切勢は北山城へ再度集結して最後の戦に臨んだのかもしれません。いずれにせよ、余りに多い戦死者や武具一切を埋めて塚として葬ったのが、今の飯島町七久保の「千人塚公園」です。

進軍はさらに北上し、駒ヶ根市の「赤須城」に迫ります。
その「赤須城」もまた、「船山城主・片切為清」の子である片切孫三郎為幸によって築かれた城であり、代々「赤須氏」を名乗って居城としてきたものです。
この時、8km後方の戦況は十分に承知していた事でしょう。援軍など、もはや望むべくもなく、織田軍勢が到着する時が赤須城の落城=赤須氏の滅亡であることも覚悟したに相違ありません。宗家の「船山城」片切氏やその家臣「北山城」上沼氏と、運命を共にする覚悟を決めたのです。

その後の伊那市「春日城」伊那部氏、武田の支城であり伊那谷の本城「高遠城」も陥落。こうして織田軍は伊那谷を制圧後、諏訪を経由して甲州までの進軍を果たしたのでした。その後はご存じの通り、追い詰められた武田勝頼は山梨県甲州市「天目山」にて一族家臣共に自害し、甲斐・武田氏は滅んだのです。

片切グループである「船山城」「北山城」「赤須城」を制圧するなどは、恐らく1週間程度の事だったでしょう。織田軍にとってはわずかな戦だったはずです。しかし上伊那郡の各城では、わずかな期限で逃げない決断をし、わずかな期間で死の覚悟を決め、瞬く間に多くの血が大地に染み込み、多くの遺体が転がり、激しい血の臭いが辺り一帯を覆ったのです。

織田軍が伊那谷の人間を次々と切り殺しながら進軍した事実。それをドラマや小説ではなく身近に起こったリアルとして想像する時、それはまさに今映し出されるイスラエルやウクライナの悲惨な映像と同じです。あれが、ここでも起きていたのだという事実に置き換わります。
とある大学生がデモ中におっしゃいました。「戦争になる前、僕だったら相手の所に出かけて行って、一晩中酒を酌み交わして解決する!」
しかし、大学生が本来すべき事は、毎日の戦争映像を見つめ、世界の現実とは何かを知り、深く考え、多くの歴史を学ぶことです。

(千人塚公園の夕暮れ)織田氏による武田氏甲州征伐の舞台のひとつ

 

「斎庭稲穂の神勅」と伊那谷のコメ不足

天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫が、地上(日本)に降臨したので天孫降臨です。
孫である「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」には、天照大御神から「稲穂」を授けられました。「この稲を育てて日本を豊かにするように…」そう仰せになります。これが「斎庭稲穂の神勅(ゆにわいなほのしんちょく)」で、日本人が米を食べることになった始まりです。

日本人であれば、米を食べずに生きてはいけないでしょう。
外食を嫌う大谷翔平君もその一人です。
稲穂を授けてくれた天照大御神の子孫が、今の126代天皇・徳仁陛下であり、日本はその皇統が2,684年間も続く世界最長国であり、米がなくては生きられないのが日本人です。これが私たちの国柄です。
ところが、スーパーからコメが消えて3週間になりました。「令和のコメ不足」だそうです。

しかしおかしなことに、田んぼ農家である伊那谷のお爺さんたちは、息子夫婦や孫たちにこう言います。
「やい、オメー達。ちーっと米を食ってくれにゃ、余ってしょうがねーわ!」
「令和のコメ不足」の中、伊那谷の農家では、米は足りないどころか、余っているのが実情です。食生活が変化し、人口減少の現代では、昔ほど自家製米は消費しないのです。
令和のコメ不足は流通米のトラブル。スーパーからコメが消えるのは都会も地方も同じで、出荷調整されて市場に流れる流通米が、ひょんな事情から足りなくなってしまったに過ぎません。
こんな理由で日本人が米を食べられない現状には、神々も憂いている事でしょう。

大阪府の吉村知事が、国の備蓄米を放出するように発言しても、お役人は「間もなくすれば新米が出回るので、コメ不足は解消されるだろう」と、他人事です。
今日のコメさえ無いのに、国家公務員には育ち盛りの子供や孫はいらっしゃらないようです。政治家に至っては、やれ「総裁選出馬だ」などと躍起で、国民を憂う発言は聞こえてきません。

「斎庭稲穂の神勅」を知らず、日本人の食文化、国の有りようを心得ていない人々こそ、「令和のコメ不足」の根本原因ではありませんか?
「米」は決して切らしてはいけないのです。十分足りているのに…。

中高年家庭である、我が家の米なし生活も2週間以上が経過しました。
親戚知人に頼れば良いのでしょうが、それでもスーパーへ行けば、他の食料品は途切れることなく並んでいます。被災したことを想えば夢の様な生活なので、子供のいる家庭に十分行き届いた後、お米は購入したいと考えています。

(追記)10月11日のスーパーには、以前に近い状態までお米が並ぶようになりました。お盆過ぎに起きた「令和のコメ不足」の解消には、丸々2か月間を要したひどい状況だったのです。

【日本のお米は「斎庭稲穂の神勅」の一握りの稲穂から、一粒万倍を繰り返して現代に実る】~駒ヶ根市東伊那の水田地帯~

あるぷす不動産のブルーべリーと量子力学

膝の痛い同級生が、グルコサミンを飲んでいると口にします。
すかさず別の同級生が噛みつきました。「オメーなぁ、グルコサミンを飲んだって、胃で糖分に分解されて終わりだぞ!。膝まで到達する訳ね―じゃねえか!」全くその通りで、法的に許されてはいても、これらの商法には眉をひそめます。

さて、あるぷす不動産の自宅の畑には「ブルーベリー」の木が20株くらい植えられています。ブルーベリーの果実は今が収穫期で、間もなく季節を終えようとしています。
このブルーベリーは先に逝ってしまった中城社長の夫人が残してくれた、想い出の木です。社長の中城は目にハンディを抱えることから、それを気遣って「沢山のブルーベリーを食べさせたい」という妻の願いによって、多くの苗木が植えられました。

ブルーベリーに含まれるアントシアニンが「目に良い」というのは、お決まりのキャッチコピーではあるものの、これもグルコサミンの例に漏れず、医学的に証明されていることではありません。
しかし、あるぷす不動産のブルーベリーは、夫である中城の目には効果があると思えて仕方がないのです。

それを証明する方法はないものか?と考えた時、「量子力学」論を用いれば説明が付き、多くの方にも「確かにその通りだわ…」とご賛同いただけるのではないかとの思いに至りました。
さらにそこから気付いたことは、「死してなお、人はこの世に存在し続ける」という仏様の世界です。

* * *

さて、まず最初に「愛する夫の目が健康でありますように…」という願いによって、ブルーベリーの苗は植えられました。
植物でありながら、ブルーベリーをどんどん細かく見ていくと「素粒子」という、人の目には見えない最も小さな存在に行き着きます。
次にブルーベリーを育てる太陽。太陽の光も分解すると「光子」という光の粒である「素粒子」に行き着きます。
ブルーベリーの素粒子は、太陽の素粒子を取り込むことで育つのです。

話は少し戻り、ブルーベリーの苗を植えた時、「夫の目が健康であります様に」と、夫人からは「願い」の「生体素粒子」が飛んでいて、植えられた苗木の素粒子との間では、波長の共鳴が起きていると考えられます。
つまり、ブルーベリーは自分が何の使命を持って、ここに植えられたかを知った訳です。

そしていよいよ果実の収穫を迎えます。太陽エネルギーの素粒子と、夫人の願いの素粒子とが共鳴し合ったブルーベリーの素粒子です。
その果実を口にした時、夫の中城には妻の願いを受け取った「幸せ」の生体素粒子が飛ぶと考えられます。夫人の「願い」の素粒子は、ブルーベリーの素粒子を介して、夫の「幸せ」の素粒子とで共鳴し合うことにより「願いは確かに届いた」と言えるのです。
これは毎年毎年、このブルーベリーを口にするたびに起こります。
当然ながら、夫である中城の目には、アントシアニンなどと言う成分を超越した、夫人からの「生命の輪」が届けられたと言って良いでしょう。

答えを言い変えれば、「このブルーベリーは、夫の中城の目には本当に効くのだ」という結論になることをご理解いただけましたでしょうか?。目に効くどころの話ではないのです。
さらには、量子力学的な論理から見え隠れするものは、これら全ての結びつきが、仏様の世界でもあるように思える事です。病床における夫人は、多くの写経を残し、我々に仏様の存在を教えてくれています。
そして死してなお、夫人(の素粒子)はブルーべりーの木に宿って生きているのです。
令和6年のお盆を前に ー合掌ー

(完結編)UFOと火山、そして諏訪大社

「UFOと関係が深いとされる火山どうしを結ぶと、きれいな二等辺三角形を形成する。その三角形での出来事だったのか?」といった内容が、前回のブログでした。
UFOと火山との関係から始めた考察でしたが、実は思いもよらない「もう一つ」の事実も示しています。
今回は完結編。「諏訪大社と火山の関係」と言う内容です。
伊那谷は諏訪大社の御神域でもありますのでお付き合い願います。

そもそも二等辺三角形が地表に現れること自体、数学の意思・測量の意思が働いていやしないだろうか?と考えたりもしましたが、こればかりは神の領域・地球の意思なので判別は付きません。
ところが、興味深いことを見つけています。御岳山と八ヶ岳の火山どうしを結んだライン上には、確かな「神」の存在があることです。

御岳山は記憶にも新しい噴火の山ですが、一方の八ヶ岳も噴火で山頂が崩壊してしまう以前は、富士山よりも標高が高かったという事実も留めておいてください。
そして、御岳山と八ヶ岳を結んだ火山のラインを注意深く見てみると、諏訪大社のご神体とされる「守屋山」が存在しています。

余談ですが、「モリヤ」とは、旧約聖書にある「アブラハムが息子・イサクの首を神に奉げようとした場所」こそが「モリヤ山」であり、イスラエルの支族が諏訪にやってきた後、古代イスラエルのモリヤ山を、諏訪に置き換えたのが「守屋山」であるとも言われています。
「固い信仰心は、神に伝わる」その記述が旧約聖書での「モリヤ山」での出来事であり、アブラハムの信仰の確かさを見た神は、イサクの首を切ることを止めさせ、イサクの代わりに羊が生贄となったという記述に由来するものが、諏訪大社においては、鹿の首を神に捧げる神事として再現されている…という説を聞いたことがあります。
日本人の4割に、中東由来のDNAが含まれている事も相まって、
「日ユ同祖論」の根拠のひとつに加えられている話です。


どうも、諏訪大社と火山には因果関係がありそうです。
寺田寅彦(物理学者・旧東京帝国大学教授)の仮説。「日本神話に登場する須佐之男命(スサノオ)の正体とは、火山の事ではないのか?」を当てはめれば合点がいきます。
火山の噴火は日本列島における地震と並ぶ最大の天災。天照大御神(アマテラス)は、暴れん坊のスサノオのせいで「天の岩戸」に隠れてしまったという神話は、「火山の噴火」による、アマテラスの岩戸での避難生活ではなかったのかとも考えれば現実味を得られます。

いずれにせよ、「スサノオ」は出雲系(=諏訪の)祖神であり、「火山」を司った神であるとすれば、2つの火山を遥拝し、怒りを鎮める場所として、ライン上にある守屋山を、諏訪の「御神体」としてお祀りしたようにも思えます。

さらに古代の諏訪の人は、この地が大断層(中央構造線と糸魚川静岡構造線)の交差点であることも何故かわかっていて、作家「戸矢 学」の言うように、御神木を神社の四隅に打ち付けて、地中に潜む「神の怒り」を封じ込めようとした「祈り」が「御柱祭」なのかもしれません。

「甲府事件」と伊那谷UFOの考察から始まった話は、「火山」がファクターとなり「諏訪大社」にまで及びました。
いずれも、当ブログによる誠に勝手な考察であることをお許し下さい。
古代史は謎に満ち溢れています。
2回に渡るヲタ話、お付き合いくださいましてありがとうございました。

諏訪大社前宮 一之御柱