本ブログ4月号にて、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が駒ヶ根に滞在したこと、大御食神社の御祀神が日本武尊であることに触れました。https://www.alps-realty.com/blog/?p=5496
あろうことか…駒ヶ根を旅だったその半年後、日本武尊は亡くなります。
皇子薨去の知らせは、すぐさまヤマト(倭/大和)の父・景行天皇に届けられます。
悲報に触れた景行天皇は深く嘆かれたと「日本書紀」は伝えています。
ヤマトタケルは、大好きな父に褒められたい一心で、ヤマト王権に従わない地方の神々(氏族)たちを征伐して回る戦いに明け暮れた人生。
今度こそ、この東征を終えればきっと父・景行天皇から褒めてもらえるのではないか…そんな願いも敵わず、今の三重県亀山市で亡くなります。30歳でした。
それはまるで、「おまけ」ほどの軽い気持ちで向かった滋賀県伊吹山への征伐でしたが、そこでヤマトタケルは脚に重傷を負ってしまいます。
軽い気持ちの出征だったので、この時は御神剣である「草薙の剣」も携えていなかった事が災いしたのでしょうか?
その傷は致命的であり、二本の脚がまるで三重に見えたとされるほどの重症で、現在「三重県」と呼ばれるのはこの逸話に由来します。
駒ヶ根の「赤須彦」の嘆きもいかほどだったことか。皇子ヤマトタケルから賜った「御食彦(ミケツヒコ)」の名を冠した「大御食神社(オオミケジンジャ)を創建し、ヤマトタケルを御祀神としてお祀り出来たのは、その17年後の景行天皇58年(西暦293年頃・今から1,732年前)でした。
(兄殺し)
そもそも、なぜそれほどまでに、ヤマトタケルは父・景行天皇から疎まれたのでしょう?それは、まだオウス(小碓尊/オウスノミコト)と呼ばれていた頃の話でした。
兄には双子であるオオウス(大碓尊/オオウスノミコト)がいましたが、父・景行天皇の側室候補の姫と密通してしまい、替え玉を差し出しすという暴挙を犯します。
自分の罪に怯えていたのでしょう。兄オオウスは朝食にさえ現れません。
「父はその事実を知っているのか?知らないのか?…」弟オウスはモヤモヤした想いの中で父から兄への伝言を預かるのです。「朝は皆が顔を揃えるようにと、兄オオウスに伝えておきなさい」。
…ところがです!
何を思ったのか、オウスは兄オオウスを捕まえて殺してしまい、しかも手足をもぎ取って袋に詰めてしまったのです。
数日後に父は尋ねます。「その後、兄オオウスはどうした?」…父はオウスが犯した残忍ぶりを知って、驚きを通り越し、恐怖に慄いてしまいます。
「穢れ」を最も嫌う時代、我が子でありながらも天皇が「穢れた者」を手元に置いておくことはできません。
父・景行天皇は、オウスに対し、ヤマト王権の反乱氏族である九州の「熊襲(クマソ)」の征伐を命じます。その時のオウスは若干15~16歳。「もう二度と、ヤマトへは戻って来ないだろう」誰もが、そう思ったそうです。
(ヤマトタケルの誕生)
九州の熊襲を、宴会場で殺そうと計画したオウス。まだ15~16歳ですから女装をして宴会へと潜入。そして切りかかります。
熊襲はオウスに向かい叫びました。「俺は九州のタケル(武)だ!おまえは誰だ!」(武/タケル:統治者)
オウスは咄嗟に「俺はヤマトのタケルだ!」と言い返したことから、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)の名で歴史上を生きることになりました。
そうして西国を制圧し、関東までの東国の制圧に命を捧げたヤマトタケル。終わりのない戦いは、延べ15年間にも及びました。
残虐性を持って生まれたのは事実でしょう。しかしそれが、戦いに暮れる彼の命を救ってきたとも考えられます。
何よりも「大和国家」を成立させていった功績は、さらにその後の国家「日本」へと歴史を繋ぐ基礎となったのです。
各地で、各地の神々(氏族)たちが荒ぶっていた混沌とした時代に、日本国の礎を築いたのは「ヤマトタケル/日本武尊」です。
当事者の本人が本当に望んだものは、父からの愛情でしかなかったところに、ヤマトタケルの悲哀がにじみ出ます。
ヤマトタケルのファンが非常に多いことを、4月のブログ記事以降に知りました。彼の足跡を巡る旅のひとつに、どうぞ駒ヶ根市の「大御食神社」をお参り下さい。きっと、境内にある一番大きな杉の木の下に幕屋が張られ、その中で腰を下ろして酒を飲んでいるのがヤマトタケルと思われます。
1,749年間の時を越え、彼にはそこで逢えそうな予感がするのです。
大御食神社(住所 長野県駒ヶ根市赤穂市場割11475)
Googleマップ https://maps.app.goo.gl/vPV5HHYvpc32GHdy8