近代国家を目指せ!南向発電所と吉瀬ダムと電力王「福沢桃介」

散々な2020年も、残すところあと2週間となった駒ヶ根です。
当ブログは、月を追うごとに読者が増えていることを承知しています。ありがとうございます。先日も大きな放送局からブログ記事を辿って取材のお電話を頂きました。多くの方に読んでいただけるので、今月は来年への勇気が湧く史実をお伝えして本年の締めとさせていただきます。

「日本が近代国家を目指して輝いていた時代」電力王の呼び名で名高い「福沢桃介」がいました。福沢諭吉の娘の婿養子であった彼が手掛けた最後の発電所建設が南向発電所(みなかたはつでんしょ・中川村大草)でした。
水力発電に情熱を注いできた彼は、晩年を迎えてようやく夢であった天竜川による水力発電に着手します。当時の南向村に発電所を建設するにあたっては、その前に工事用の電力を確保する目的から「大久保ダム・大久保発電所」を建設します。これが宮田村と駒ヶ根市の境にある大久保ダムの本来の目的です。
次に南向発電所のタービンを回す大水力を得るために、取水目的で建設されたのが「吉瀬ダム」(駒ヶ根市中沢)だったというわけです。したがって吉瀬ダムや大久保ダムは台風時に洪水を防ぐといった防災機能は持ち合わせてはいません。

さて、吉瀬ダムで取水した水を発電所まで届けるには、12㎞にも及ぶ水路を建設する必要があります。それは重機などまだ無い時代に、天竜川沿いの急峻な崖や山の中、沢を超え田畑の地中を抜ける難工事です。しかし当時の日本人の体力は想像以上にすさまじかったと言えるでしょう。2年間の工事を終えると、標高差約80mを下った大量の水は大きなタービンを物ともせずに回し、発電所は送電を開始したのです。
ちなみに筆者が子供の頃、探検中の山中で突如出くわしたこれらの太い水路トンネルや大きなコンクリート製の水路には思わず驚嘆し、滔々と流れる太く静かな水の流れには恐れ慄いた記憶があります。
そうして作られた電力は家庭の裸電球に柔らかな明かりを灯し、工場の旋盤を回し、急速に国力を高めていく原動力となりました。昭和になりたてのそんな時代、ここ伊那谷でも日本の近代化を確かに支えていたのです。

福沢桃介は南向発電所の完成を待たずに60歳を期に引退をし、その9年後にこの世を去り伝説の人となります。
昭和4年に完成した南向発電所は原子力発電所が止まっている事情もあり、90年を経た今もなお現役です。
タービンを回し終えた大量の水は天竜川へ戻るのかと思いきや、さらに別の水路を下り下伊那郡の田んぼを潤し農業用水として活用されてからその役目を終えています。

情熱を傾けた電力王がいて、遠く離れた駒ヶ根市のダムが中川村の発電を支える、90年を過ぎた今でも先人の恩恵を享受する我々がいる。
ちっぽけな私たちでも、一人ひとりの注ぐ情熱はきっと誰かの役に立つことでしょう。来年はきっと良い年です!
ピンチはチャンス、また年越しにお会いしましょう!

南向発電所(中川村)


吉瀬ダム(駒ヶ根市)