「木曽義仲の伊那攻め」

2023夏山シーズンを迎えた駒ヶ根です。
中央アルプス山麓の街・駒ヶ根市。西側にそびえる山脈の日本名は「木曽山脈」です。その由来となる、駒ヶ根の反対側の谷を「木曽谷」と言います。深い木曽谷には、かつて源氏の武将「木曽義仲」がいました。それは今から約850年ほど前の時代です。

「木曽義仲」は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の序盤にも登場しましたし、数多い歴史登場人物なので、皆様がそれぞれに「木曽義仲」の人物像をお持ちでしょう。ドラマで多く描かれる通りの、如何ともし難い田舎者だったことは明らかなようですが、一方で結構イケメンだったそうですから意外です。
さて、今回は夏山シーズンに因んで、「木曽義仲が中央アルプスを越え来た!」という、マイナーな歴史を学んでみましょう。

史実に乏しいのですが、正しくは「木曽義仲の伊那攻め」あるいは「木曽殿越え」等と呼ばれているようです。
平安時代の末期、「京」の皇族・以仁王(もちひとおう)から全国の源氏に発せられた命令「平氏を追討せよ」により、源氏と平氏の争いが激化しましたね。
京へ上って大出世する以前の木曽義仲も、信濃のみならず北陸にまで戦に出向いていたようです。時はその頃の話です。

現在の伊那市美篶(史蹟 蟻塚城址付近)に、豪族・笠原氏がいました。源氏の木曽義仲は降参を促しましたが、笠原氏はこれを拒否。怒った義仲は何と中央アルプス/木曽山脈を越えて伊那へ攻め入ったというのです。これが「木曽義仲の伊那攻め」「木曽殿越え」。

標高2800mを越えて進軍したとは、にわかに信じがたい話ですが、隣接する宮田村新田地区には、その伝承を伝える「駒潰れ」と呼ばれる岩が残っています。
木曽義仲軍が山脈越えを果たし、ここまで下って来たものの、あまりの険しさに疲れ果てた馬が立ったまま死んでしまった。岩に残る「蹄」の形は、その時の跡だとされる伝承話です。
どれほどの軍勢だったのか?真実は険しい峰々を迂回した伊那入りだったのではないか?いや、山脈越えは事実だが、少人数によるゲリラ戦ではなかったか?等々…想いは巡りに巡ります。

どうやら山脈越えは真実だったのではないか?と思わせる決定的な「水場(みずば)」があります。
そこは何と、中央アルプス空木岳とその西側の東川岳との間、標高2497mの鞍部の登山道にある水場で、「義仲の力水」と呼ばれています。
伝説では「1180年(治承4年)に、武将木曽義仲がここを越えた」とされています。これが「木曽殿越え」のルートだったのでしょう。
ほど近い山小屋の名も「木曽殿山荘」。
進軍は木曽の大桑あたりから山中へ分け入ったのでしょうか?。空木岳から駒ヶ根高原に下り、最後に太田切川を渡るとそこが宮田村新田です。千畳敷を迂回したとしても、やはり宮田村新田に下ります。

その後の戦は順番に進めたものだったのか、軍を二手に分けたのかは定かではありませんが、天竜川東岸の笠原氏居城「蟻塚城」と、天竜川西岸の支城「鷹待城(現在の伊那市西箕輪吹上)」は共に落城し、焼き払われました。以降、伊那は木曽義仲の領地となったという歴史です。

南アルプス山系にある伊那市長谷「浦」地区は、平氏の落人集落とされる場所です。今の時代であれば、笠原氏居城跡からはクルマで40分ほどの距離。源氏も平氏も、両者の歴史が現在に通じていることを想うとき、実に伊那谷は歴史と歩んだきた土地であるかを思い知らされます。

「大日本六十余将」より『信濃 旭将軍源義仲』、大判錦絵 /出典:ウィキペディアより