青崩峠トンネルと秋葉街道

5月に、三遠南信自動車道の「青崩峠トンネル貫通」のニュースがありました。
「それは遠い遠い、南信州の出来事」と思われた長野県民も多いことでしょう。しかし、このトンネル貫通は「道の歴史」が再び甦ることであり、「再び歴史が動き出す」一大事でもあるのです。

中央自動車道~新東名高速道路を結ぶ100Kmの「三遠南信自動車道」は、40年前の着工にもかかわらず、「コンクリートから人へ」の民主党政権下では工事も進まず、さらには「トンネル掘削は技術的に困難」とも言われ、あきらめムードが漂っていました。
そんな折、時の田中康夫長野県知事が誕生します。彼も「脱ダム宣言」などの、民主党に近い政策を掲げる一方で、県政から取り残された下伊那郡に想いを寄せていたのは事実です。国道152号線を県が整備して「供用して使う」プランにより、棚上げされた三遠南信自動車道を動かそうとします。

その国道152号線。下伊那郡に入ると「酷道152号線」などと揶揄される酷い道です。2か所が崩落で寸断する、地図上だけの国道なのです。
けれども、これは行政の手抜きを批判するだけでは済まない地形学上の問題を抱えています。152号線そのものがフォッサマグナ・中央構造線の直上であり、今この瞬間でも東西の岩盤プレートどうしがぶつかり、動いている最前線の地表を国道152号線は走っています。
どうしてそんな道が国道に?とお思いでしょうが、国道152号線のルーツは古道「秋葉街道」と呼ばれる主要な街道であり、歴史深い道なのです。

秋葉信仰をご存じでしょうか?
御祭神「火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオカミ)」は火災除けの神様として、北海道から奄美諸島まで数多く「秋葉神社」が存在する通り、日本における最も身近な火伏せ信仰です。
江戸時代には日本全国から、現在の浜松市天竜区にある「秋葉山本宮・秋葉神社」へ参拝することが日常化しました。
信州の人々もまた、諏訪大社前宮の横から高遠へと南下し、分杭峠~遠山郷から青崩峠を越えて秋葉神社へと向かったこの道を「秋葉街道」と呼んできました。

昔は激流の天竜川など渡れません。秋葉街道はそうした難所を避けられ、諏訪から太平洋に抜けられる最短の街道だったのです。
そのため、遠州からは「塩の道」でもあったと同時に、武田信玄が織田・徳川との戦に進軍していたのもこの街道です。それ以前も南北朝の争乱期には、大鹿村大河原の地を拠点にしていた後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)が再建を図ろうと、諸国を頻繁に往来していたのも秋葉街道。もっと遡れば、源氏に敗れた平家が秋葉街道を北上し、さらに東西の山中へと分け散って生き抜いてきた道です。
多くの人が行き交ったはずの街道の歴史が、昭和の時代に寸断されてしまいました。

青崩峠トンネルの貫通によって、いよいよ三遠南信自動車道の開通が視野に入ります。それは秋葉街道が現代に蘇り、歴史が再び動き出すことでもあるのです。
駒ヶ根からは中央道を南下し、飯田山本ICから三遠南信自動車道へ分岐すれば、蘇った「秋葉街道」を行き、新東名高速道路・浜松いなさJCまでは1時間半ほどでしょうか?。皆様ならば、そこからどちらへ向かわれますか?子供を海へ連れて行くには太平洋が近くなりますね。
経済効果がどうのこうのより、秋葉街道が再び往来を生み、人と人とを結び、新しい友人や恋人、家庭を生み出すのは確かでしょう。
当社では、「徳川家康ゆかりの地」を巡ったり、沢山の海産物を駒ヶ根に持ち帰ることを想像しながらワクワクしています。

秋葉街道の由来「秋葉神社」 (photo/matsuemon)