「最澄」と駒ヶ根

お彼岸前の駒ヶ根です。

お墓参りに出かけた足で、お花見をしてくる方が多いとお聞きします。けれど駒ヶ根の桜は、お彼岸から更にひと月も先のお話。
ひとまずは、お彼岸に因んで、あの有名な仏教の開祖「最澄」と駒ヶ根との関わりを学んでみようと思います。

* 仏教の二大開祖として

「最澄と空海」。歴史上ではこのように、お二人は必ずセットでご登場されます。
同時代を生き、同時期に遣唐使として大陸へ渡って密教(秘伝の仏教)を授かり、そして共に日本中へ仏教を布教した僧侶であることから、それは必然なのかもしれません。
当の本人たちも、互いを良く知り、尊敬し合い、そしてライバルでもあったことは事実のようです。

** 民衆に仏教を注いだ最澄

日本の初期の仏教は朝廷や公家のものであり、寺は朝廷直轄。僧侶は高級官僚的な身分だったそうです。
「最澄」も既に名の知れた僧侶であり、いささか歳も重ねてはいましたが、朝廷からの指名を受けたため、遣唐使船に乗りこみました。

唐では用意された密教の寺で修行をし、教義を授かって帰国はしましたが、同じく帰国した空海が授かった密教にこそ、正統性があると気づいて愕然としたようです。インドの初期密教「雑密」が、唐に渡って「中密」と変化した過程で、宗派や教義も分派していたのでしょう。

しかし、間違いなく日本に渡った密教「純密」は、空海により「真言宗」、そして最澄により「天台宗」として日本に根を下ろします。
さあ、いよいよ仏教が、日本の民衆に注がれる幕が開きました。

*** 仏教を背景にした藤原氏の支配力

初期の仏教・寺院は朝廷直轄でしたから、地方のあちらこちらにお寺を建てようとなりますと、仕組みを変えなければなりません。
つまり、寺をたくさん作るには、朝廷の権力や威光を必要としますが、増え続ける寺や僧侶の面倒までは、朝廷が面倒を見続けることは出来ません。

そこで最澄は、寺の周囲に寺領・農地を与えてもらい、時給自足で寺を運営する「荘園制度」という仕組みをこしらえました。
高僧であり、遣唐使の箔も付いていた最澄にとって、当時栄華を極めていた藤原氏の権力を頼ることは容易だったと思われます。
藤原氏にとっても、災害・伝染病・飢餓といった民衆の苦しみを「仏教」の力で鎮めることを目論み、同時に仏教の普及が、一族の支配力の拡大にも使えると考えたのでしょう。

伊那谷にもそうした藤原氏の支配力を背景に、最澄による仏教が入ってくることになったのです。

**** 最澄と駒ヶ根・伊那谷

弘仁8年(817年)、京都からの玄関口である神坂峠(下伊那郡阿智村)を越え、「最澄」は信濃にもやってきました。その峠越えの険しい惨状を見兼ねて、早々に「廣拯院」(長野県下伊那郡阿智村智里園原)を建てました。「万人の救済」を説いた最澄らしく、旅人の救済目的の無料宿泊所(布施屋)だったそうです。
こうして伊那谷には、初期の天台宗(比叡山延暦寺) のお寺が次々と建てられていきました。

・弘仁7年(816年)仲仙寺(長野県伊那市)
・弘仁8年(817年) 廣拯院(長野県下伊那郡阿智村智里園原)
・天長5年(828年)長岳寺(長野県下伊那郡阿智村駒場)
・貞観2年(860年)光前寺(長野県駒ヶ根市)

我が駒ヶ根市の光前寺は、「早太郎伝説」で有名であり、駒ヶ根市の観光資源でもあります。
あの「最澄」という歴史人物がいたからこそ、こうして光前寺は今日の栄華を誇り、創建の時代背景には、藤原氏という権力者の存在が大きく関与していました。
光前寺の枝垂れ桜を見物に訪れる4月下旬、我々は最澄や藤原氏とも一本の歴史で繋がっているのだと、感慨深く思うのです。

画像:光前寺(天台宗別格本山)の枝垂れ桜