梅雨入り前の駒ヶ根です。
私たちの伊那谷が自衛隊のお世話になったのは、昭和36年(1961年)の豪雨災害の時でした。
梅雨前線による豪雨に見舞われた伊那谷は、至る所で山体崩落や土砂災害が発生。谷を土石流が下り、民家を人命ごと飲み込み、河川の氾濫により家屋が浸水、農地はかい廃しました。死者・行方不明者130名超、家屋全半壊・流失1,500戸以上、土砂崩れ1万か所超という空前の大被害でした。
その「三六災害」の発生時に、自衛隊が出動してくれたのです。
+ 昭和36年当時の自衛隊
今から40年前のバブル期・1985年頃でさえも、自衛隊員の子供は、教壇に立つ教職員から「○○君のお父さんは憲法違反の仕事だね」などと心無い言葉を投げつけられていました。そこから25年が経過した16年前・2010年でさえも、当時の民主党政権の官房長官は、自衛隊のことを「暴力装置」と表現していたほどです。
それが戦後からまだ16年しか経過していない昭和36年(1961年)とあれば、さらには陸上自衛隊が発足してからたった7年目とあれば、日本国内における自衛隊の立場は、不安定で混沌とした時代であったはず。
果たして、昭和36年の三六災害当時、伊那谷の町村や住民は、自衛隊に対してどう接していたのか?それは長い間の疑問でした。
+ 三六災害と自衛隊
数年前、当時の中川村の消防団員として出動され、今は90歳を超えたご老人に尋ねる機会がありました。
そこで、長い間の疑問を問いかけた会話をご紹介しましょう。
…
「三六災害の時にも、自衛隊は来たのでしょうか?」
…
「おう来たよ!」
「ほいだけどなー、自衛隊も泊まらにゃいかんら?。ほいで体育館を貸せりょというやつをなー、村が断っちまったもんでなー、ずーでー、怒って帰っちまいやがって…。」
『ずーでー』は方言で、感嘆詞なので意味はありません。
英語で言うところの「OH MY …(なんてこった)」です。
体育館を貸さなかった真意は何だったのでしょう?
今は、自衛隊が宿舎に体育館を使いたいと申し出ることはしません。しかし、発足したばかりの自衛隊にとっては、現代の様な装備品や自給食などが充足していたとは到底思えず、「隊員の宿舎に、体育館を使わせてほしい」との申し出は、当時では当たり前の要望だったと思います。
「怒って帰っちまいやがって」という言葉には様々な背景が滲みます。
仮に自衛隊が本当に怒ったのだとしても、気持ちは十二分に理解できます。しかし、むしろ自衛隊以上に納得がいかなかったのは、村民の側だったのかもしれません。
村の男たちである消防団にとっては願ってもない援軍であり、婦人会のおばさんたちも、出来る限りの炊き出しや奉仕をするつもりでいたはずです。ところがあろうことか、村を出て行くと言います。
「帰っちまいやがって…」という言い方は、「悔しさ」だったように聞こえます。
昭和36年当時を調べれば、村は旧南向村と旧片桐村とで合併した3年後であり、村内の小中学校は計4校・大きな公民館2つ・さらに分校を含めた体育館の総数は、7つを数えたと思われます。
どうであれ、中川村での宿泊を断られた自衛隊は、下伊那郡のどこかの体育館に受け入れられたようで、決して撤収してしまったわけではなく、米軍も加わって最後まで救助活動や捜索活動に従事してくれました。
+ イデオロギーが人命救助よりも優先する?
2022年9月の静岡県豪雨災害を覚えていらっしゃいますでしょうか?
当時の静岡県知事といえば、「青春時代は『毛沢東語録』をいつもポケットに入れて、暗記するほど何度も読んだ」と公言される方でした。
「リニアは静岡県にはいらない」とマスコミの前で公言し、リニア工事を拒否し続けた知事です。
2022年の台風15号による豪雨は、9月23日深夜から24日明け方にかけて静岡県内の11市町に被害をもたらしました。SNS上では危険な状況が続々と更新され、「自衛隊はなぜ来てくれない!」「静岡県知事はなぜ自衛隊を呼ばない!」といった書き込みが数日間続いていました。
内閣府は24日に静岡県内の23市町に対して災害救助法の適用を決めたにもかかわらず、知事が自衛隊に対して災害派遣の要請をしたのは、さらに2日後の26日になってからです。自衛隊は、早くから派遣要請の準備をしていたと言われています。
この災害は、死者3名、重傷者12名、浸水家屋8,950棟を出す大災害だったのでした。
左派首長による「反自衛隊」の政治思想が原因で、自衛隊との連携や防災訓練を拒否し続け、緊急を要する災害発生時に至っても初動要請が遅れた事例は、過去に複数回存在します。
人命救助が、イデオロギーに左右されない日本であってほしいと願います。
駒ヶ根の梅雨入りは例年6月早々です。今年も大きな災害が起きることなく、いつもの夏を迎えてほしいと願います。
画像転用「36災伊那谷災害復旧工事報告書/長野県土木部」よりhttps://www.pref.nagano.lg.jp/sabo/manabu/documents/36saiinadanisaigaifukyu-74.pdf
大鹿村大西山の崩落により、集落が一瞬にして飲み込まれ、43名の犠牲者を出した。捜索さえ不可能であり、犠牲者は今も地中深くに眠る。
