千畳敷カールの紅葉が見頃の駒ヶ根です。
8月15日の終戦から2か月が経った80年前の10月、「学童疎開」の子供たちは次々と東京へと戻っていきました。
混乱の中、「さようなら」を交わしたかどうかさえも分からない帰還だったでしょう。
東京へ戻ったと言っても、どこの家も焼かれてしまっていて、そこには何もない焼野原が広がり、バラック小屋での新生活の始まりだったのです。東京だけではなく、日本中の都市が焼き尽くされた敗戦でした。
それでも子供にとって、親兄弟と暮らせる幸福感は大きかったと思います。
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……しかし、一方ではそんな子供たちばかりではありませんでした。
会いたかった両親や、まだ乳飲み子だった弟や妹までもが焼け死んでしまい、”戦争孤児”となってしまった子供たちは戦後12万人もいたとされています。
この一行を記すだけでも涙が溢れます。
現実を知らされた時のショックや悲しみは、子供たちにとってはいかほどだったことでしょう。日本中の都市で「一般市民」までもが焼夷弾で、核爆弾で焼き殺された事実は、紛れもない歴史の1ページです。
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1944年、戦況思わしくなく、日本の本土にまで爆撃機が飛来することを予測した政府は、都市部の子供たちを農村に避難させることを決めました。それが学童疎開です。
長野県では、東京都の3万人の児童を集団疎開先として受け入れることにしました。伊那谷では、上伊那郡だけでも3千人規模の学童を受け入れたと推測できます。当時は行政の区割りが全く違いますが、現代で言えば駒ヶ根市と周辺の町村には1,000人ほどの小学生が急に増えたわけで、小学校ごとには、クラスに5人~10人の疎開してきた子供たちがいたことでしょう。
お寺や旅館を宿舎として、親元を離れた子供たちは寄せ合うような避難生活を始めます。
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疎開経験のあるご高齢者は、誰もが黙して多くを語らないと感じたことはありませんか?
木曽に疎開をしていた有名な方を駒ヶ根にお迎えした時、中央アルプスを眺めながら「俺はあの山の向こうに疎開してたんだよ…」とだけおっしゃいました。有名な話なので存じていましたが、「そうでしたか…」とお答えしても、その先の言葉は出てきません。
疎開とは、子供にとってはあまりに辛く、厳しい毎日だったことは察するに余りあります。
疎開の子供たちは学校へ行くにも弁当など持たしてもらえず、「弁当の時間になると、疎開の子供たちはサーっとどこかへ行っちまうんだよ。」と、伊那谷のご年配の多くの方が、まず先にその話を語ります。
戦時中は、いくら農村と言えども食糧事情は困難を極めていた時代です。
そんな暮らしながら、お腹を空かせた子供たちが親元へ宛てた手紙には、「こちらでは、秋には栗やキノコがたくさん採れる」などと記し、子供なりの心配をかけまいとする気遣いが、残された紙面からは読み取れます。
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残念ながら、長野県に疎開していた子供たちの多くが、お亡くなりになられる時代にあります。
戦争孤児となられた12万人の戦後とは、どの様な人生だったのでしょうか?
高度経済成長の恩恵に授かり、幸せな家庭を築けた人生でありましたように…そう、祈らずにはいられません。
大人になってから、この景色を見るために再駒してくれた学童疎開の子供たちはどれほどいたのだろうか?