中央アルプスが国定公園に!

春へは足踏みをしている駒ヶ根です。
今週になって大きなニュースが飛び込んできました。駒ヶ根市の至宝「中央アルプス県立公園」を「国定公園」にしてもらえるようにと、長野県が国に申請をすることが決まりました。よもや却下と言う事態は考えにくいのでこの流れは決定へと向かうのでしょう。これに先立ち、長野県では県立公園の指定を解除することが了承されました。国定公園化の背景には、①リニア中央新幹線飯田駅開通後に増加が予想される中央アルプス一帯の観光振興に備えること。そして、②急増する観光客から貴重な観光資源を守るには「国定化」が必要不可欠と判断されたことが挙げられます。国定公園化は遅きに失した感がありますが、何より喜ばしいことだと歓迎します。
「国立公園」との違い?とは、国が直接管理するか県や市町村が管理するかの区別だそうで、今まで通り地元が観光資源を有効に活用できるところは国定公園のメリットだと思います。
また今回初めて知った事ですが、「中央アルプス県立公園」というのは上伊那~下伊那~木曽までを含む17市町村にもまたがるということでした。「地図上、裏山が含まれているに過ぎない」という町や村もあるでしょう。国定公園の主役は名実共に駒ヶ根市が担うことは必然です。

1963年、かつての先人たちが”あの山を観光資源にしよう!”と日本初の山岳ロープウェイ構想から56年。次の50年後には中央アルプスの玄関口としての駒ヶ根市はどんな街であるべきか?。叡智を絞り活発な議論を行う時です。

「大法寺」の節分厄除

積雪は無いのですが、吹雪く寒さに耐える駒ヶ根です。
皆さま、先日の「節分」はきちんと厄除けをなさいましたか? きっと、まんまと商戦に乗せられて恵方巻を食べたことでしょう? 豆まきも、スーパーで買った中国産の落花生などで間に合わせたりしていませんか? しちゃいますよね、それらのなんちゃって節分。では、駒ヶ根の“由緒”ある節分祈願法要をご案内しますので、来年は是非お出かけください。
五十鈴神社南側の「大法寺」は、伊南地区唯一の法華寺院であり、節分厄除け行事が有名です。毎年2月3日の「節分厄除」は、「水行式」なる寒水での禊の儀式が行われます。寒い朝、今にも凍りそうな水樽が境内に置かれます。ふんどし姿の若い僧侶と住職が現われ、若い僧侶は水樽の前にかがみます。後方で住職が平べったい太鼓のような木鉦(もくしょう)を叩き響かせながら、独特の声色で経文を唱え始めます。すると、ふんどし姿の僧侶も同じく経文を唱えながら一心に寒水を汲み上げては頭から何杯もかぶるのです。この荒行を自らに強いることと引き換えに、地域の五穀豊穣や人々の無病息災を祈願するのです。取り囲む参拝者も、荒行に対して手を合わせ共に祈ります。その後は、「お焚きあげ」と言い、古いお札やお守り、ダルマなどを大きな炎で燃やします。火の脇には竹筒が置かれ、竹筒でお燗にされたお酒が縁起物として参詣者に振る舞われます。合掌。

画像提供:駒ヶ根市役所

駒ヶ根の元日営業

本年もよろしくお願い申し上げます。
平成最後のお正月、駒ヶ根は晴天続きの穏やかな日々でした。
さて近年、元日営業の是非が取り沙汰される中、駒ヶ根はどんなものなのか気になっていましたので、元日の夕方に市内を一周してみました。最も気になるスーパーマーケットは、営業しているチェーン店としていないチェーン店とに分かれていました。市街地にある地元経営の商店・店舗は予想通りに完全休業しており厳粛な雰囲気が漂う一方で、ロードサイドの飲食チェーン店は全店で営業をしていたのが対象的でした。
元日営業には違和感を感じる人が多いものの、サービスを必要とするお客さんがいるのも事実です。今年は良い機会だったので元日の夕食時に牛丼店に入ってみました。直ぐに感じたのは、お正月は誰もが休みで、誰もがお正月気分でいるわけではないという現実です。元日の夜であっても、一人で牛丼店を訪れる老人、父子家庭と思われる家族、そして仕事着の若者などが訪れます。店側も元日は閉店した方が得とわかっていると思うのですが、365日24時間営業に「使命感」を持って営業しているのであれば、一概に元日営業を非難できないのかもしれません。そしてこんな小さな街でも、お正月も関係なく様々な境遇で頑張っている人々がいることを、元日夜の牛丼店で学びました。
今年もこの街が平穏でありますように。

伊那谷の正月飾り

皆さまは正月飾りはどうされていますか?近年では、多くの玄関先でホームセンター等で買った正月飾りを掲げる時代になりました。そこで、本年最後のブログ記事にあたり、駒ヶ根を含む伊那谷の伝統的な正月飾りについてご紹介しようと思います。
中央に竹が3本そびえる全国標準型の門松の豪華さに比べると、伊那谷の門松はとても質素です。まず皮を剥いだきれいな2本の杭を玄関先に打ちつけます。2本の杭それぞれに「松」と「竹」の両方を立てます(地域や家庭によっては「松」のみ)。そして藁を筒状にこしらえた「おやす(神様の食器)」を飾り付けてから、和紙で作った「紙垂(しで)」をはさんだ「注連縄(しめなわ)」を2本の杭に渡すというものです。杭を立てる場所が無い市街地のお宅用や玄関先用の正月飾りは、上記アイテムを簡素化して「おやす」に「松」の枝と「紙垂」を結わえたものをこしらえます。
質素な見た目ですが、藁は秋の稲刈りのものですし、山から松の枝をいただいてくるところから正月飾りは始まっています。面倒な作業が多く長い時間を要するものです。しかし、その長い作業時間そのものが「神事」であり、家族への平安を願う家主の思いが込められています。なんと神々しく美しい正月飾りだろうかと思います。
では、皆さまにとって良い新年が訪れます様に。

伊南バイパス全線開通

2018年11月17日、当社の前を通る国道153号線「伊南バイパス」が全線開通しました。唯一の未開通区間だった、駒ヶ根市~飯島町間の橋が完成したことによる全線開通です。1977年(昭和52)年に着手してから42年間を要し平成最後の年に完成という、何とも壮大な年月を要してしまったという感想です。
この「中央アルプス大橋」と名付けられた橋は、長さが990メートルもあり一般道では県内最長の橋だそうです。「旧国鉄飯田線・田切のΩ(オメガ)カーブ」といえば、古い鉄道ファンにとっては有名な「撮り鉄」スポットですが、この橋はそのΩカーブの東側に架かりました。中田切川を渡る橋でもあるのですがその部分は30メートル程で、主な橋の目的は高い台地どうしを繋ぐための橋です。低い台地に高く太い橋脚を立て、高架が高い台地どうしを一直線で結ぶ橋です。伊那谷特有の地形では、一旦低地の沢底まで坂を下ってから橋を渡り、そしてまた坂を登って進むしか術がなかったわけですが、21世紀のこの橋は地形のハンデをものともせず一直線で結んでしまうという土木技術の凄さを見せつける橋です。
開通の式典には阿部守一知事や宮下一郎衆議院議員もおいでになり悲願達成を祝うと共に、早く渡りたいと思う大勢のクルマで、橋の上のみならずバイパス全体が終始大渋滞となる一日でした。

薄っすらと初冠雪~中央アルプス山頂10月15日

ちょっと寒くなってきた駒ヶ根です。
台風の雨の中でしたが、9月30日には第6回駒ヶ根ハーフマラソンが無事に行われました。10月に入った5日には、第12回山麓美酒フェスタが行われ、地酒の日本酒やビール、ウイスキー、ワインなどを味わうイベントが開催され、街の中は大いに盛り上がりました。10月7日には、NHKのど自慢・駒ヶ根市などもありましたがご覧になりましたか?
さて冷え込んだ10月15日、中央アルプスの山頂付近ではやはり初冠雪が見られました。「どうりで…」という思いと「いよいよ…」という思い。冬の前のプレゼントでもある雄大な紅葉の進み具合は、例年よりは遅めでしょうか。急なご予定でも、是非「駒ヶ岳ロープウェイ・千畳敷カール」へお越しいただきたいと思います。10月20日~21日にかけては恒例の「中央アルプスウェストン祭」も行われます。英国人のウォルター・ウェストンは日本山岳会の父ですが、ウェストン祭は中央アルプスの玄関口である駒ヶ根市らしいイベントの一つです。(詳細はこちらから/駒ヶ根観光協会
「新そば」が本格的に提供されるのは11月からでしょうけども、年間を通して安定の味「駒ヶ根ソースかつ丼」がありますので、グルメもご安心ください。市内46店舗のいたるお店でご提供しています。病みつきになりますよ!

⇩ 中央アルプス観光様 / YOUTUBE動画

旧駒ヶ根カントリークラブ

稲刈りが真っ盛りの駒ヶ根です。
今月は、関西地方の台風被害と北海道の地震災害が立て続けに起こるという不幸な月となりました。台風では「ソーラーパネルの危険性」が浮き彫りになり、北海道の大停電では「自然エネルギーに頼った発電力の限界」も取り沙汰されました。良い面と悪い面の両方があるのでしょうが、地方では閉鎖したゴルフ場をメガソーラー発電所に転用する流れがあるのも実情です。
駒ヶ根市中沢にも、「駒カン」の愛称で親しまれたゴルフ場がありました。大変な山奥の、褒められるようなゴルフ場ではありませんでしたが、それでも18ホールを備えた市内のゴルフ場でもあったため、多くの市民ゴルファーがここで腕前を上げたのでした。ところが2007年には営業停止。その後に紆余曲折を経ながらも何とかコースだけは運営されていたのですが、ついに2015年には完全閉鎖。最新の所有者はメガソーラー発電所への転用を発表したのでした。そして今年2018年の冬からは発電事業がスタートするそうです。
パネルを設置する直前の駒カンに入れてもらうと、クラブハウスは面影もなく取り壊され、コースは芝とも草とも区別がつかない荒れ放題となっていました。もう再び市民が足を踏み入れることは出来ませんが、楽しかった思い出話は長く語られていくことでしょう。

赤穂高校甲子園出場~昭和35年~

お盆を過ぎて、朝晩の肌寒さに驚く駒ヶ根です。
さて、今年の甲子園は長野県代表の佐久長聖高校が、1回戦を勝ち上がるなどの健闘を見せてくれました。長野県代表と言えば、近年は松商学園か佐久長聖高校の2強となっているのが実情です。しかし実は、甲子園には無縁と思われている駒ヶ根市の甲子園ネタもありますのでお伝えしましょう。
昭和35年の第41回全国高校野球大会・長野大会の決勝戦。伊那市営球場で甲子園への出場を賭けて戦うチームは、我が駒ヶ根市の赤穂高校と相手は文武の名門・長野高校でした。地元チームが地元で戦う決勝戦となり、伊那市営球場は開場以来の超満員・大観衆。騒然とした一帯の雰囲気の中、当時は球場隣にあった伊那東中学校も急きょ休校にする事態に。相手の長野高校にしてみれば完全なるアウェー状態。しかも何ということでしょう!球場に入り切れず、周囲でラジオ観戦をするしか術がなかった地元ファンは、赤穂高校のピッチャー竹村君の投じる一球ごとに、乗ってきたオートバイや車のクラクションを鳴らして相手バッターを威嚇してしまう始末。熱狂的?な応援の甲斐あって、見事に赤穂高校は甲子園への初出場を手にしたのでした。
甲子園では惜しくも早稲田実業に2回戦で負けたわけですが、このように当時は、広くどの高校にも甲子園への出場チャンスがあった良い時代だったのですね。

現在では、応援で沸き返ったスタンドも取り壊された伊那市営球場

 

 

災害の記憶 ~「三六災害」昭和36年~

西日本豪雨によりお亡くなりになられた方々のご冥福と、被災された皆さまへのお見舞いを申し上げます。

長野県南部でもかつて甚大な災害の歴史があります。「三六災害」(さぶろく/さんろくさいがい)と呼ばれるものです。私たちが子供の頃は学校で災害の歴史を学び、全国から支援品が送られた事を教わりました。
今から57年前のちょうど同じ時期、昭和36年(1961年)6月24日から7月10日にかけての梅雨前線豪雨により、長野県南部は真に今回の様な災害に遭っていたのでした。駒ヶ根市を含む長野県南部の伊那谷では、あちらこちらの山が爪で引っかいた様な土砂崩落に見舞われ家屋は押しつぶされ多くの人が圧死、河川も氾濫し土石流が沢を埋め、天竜川では堤防が決壊し一面濁流の海と化した甚大な被害だったのです。県内死者数は134名という大災害でした。特に隣村の中川村四徳地区は、土石流が谷あいの集落を一気に崩壊、生存した四徳の人びとは集団移住をするしか生きていく術を失いました。下伊那郡大鹿村では大西山が6月29日朝、突然に崩落し、裾野の集落を一瞬で呑み込み42名が亡くなりました。
駒ヶ根市では中沢新宮川、百々目木川流域で土砂崩れによる5名の命が奪われ、60戸もの家屋が押しつぶされました。何と上流のがけ崩れは390か所にも及び、新宮川発電所も決壊してしまいました。
昨今の豪雨災害は毎年のように日本のどこかで起こります。伊那谷では大きな災害を経験したにもかかわらず、57年を経過した現在では緊張感は失ってしまった様に思えます。もちろん当時と今では防災インフラが違います。ダムもありますし、堤防も立派です。しかしそれでも市民がハザードマップを真摯に受け止めることや、危険な土地からの住み替え希望者へは、不動産業界総出で支える必要があると考えています。

【参考サイト】国土交通省天竜川上流河川事務所「三六災害アーカイブス」よりhttp://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/36saigai/index.html

駒ヶ根高原別荘地

梅雨明けを待ちわびる6月中旬の駒ヶ根です。
さて、皆様は別荘地と言えば”軽井沢”を真っ先に連想されることでしょう。人口2万人の山間の町、長野県軽井沢町は夏の避暑シーズンになると別荘族で20万人の人口に膨れ上がります。これに加えて、年間800万人の観光客が訪れるわけですから、夏の1か月間には86万人以上が滞在する計算です。これは東京都世田谷区の人口88万人に匹敵します。さらには、軽井沢町には別荘地からの潤沢な固定資産税収入があり、東京都と同じく国からの地方交付金が0円の地方公共団体です。このあたりが、「東京の24番目の区」「東京の飛び地」と言われる所以でしょうか。

実は駒ヶ根も”第二の軽井沢”を目指した時期がありました。もっと言えば多くの県内市町村がそうでした。隣の伊那市にも飯田市にも「昔の市の別荘地」と呼ばれる場所が山の麓にあります。県内では有名無名関係なく「高原」と名の付く場所には大抵別荘地が存在します。その多くが開発された昭和30年代とは、別荘地開発時代だったのです。海外旅行など普通の人には行けず、新婚旅行でさえも熱海か宮崎だった時代に、「サラリーマンでも買える別荘」ブームがあったのでしょう。企業や学校も「保養所」としてあちらこちらを購入しました。

駒ヶ根高原別荘地は、土地を一帯の所有者である光前寺から駒ヶ根市が借り受けて貸し出す方法で行われました。昭和40年代に開通した中央自動車道への期待感も当時は大きかったでしょう。しかし期待感は次第にしぼみ、現在に至っては全国の別荘地同様に衰退した現実を認めざるを得ません。一方では駒ヶ根高原の別荘を熱心に活用される方や、定住に利用される方も見受けられます。新たに建築されたログハウスも数棟見受けられます。
せっかく駒ヶ根市もインフラ整備を行っている別荘地でもあるので、”第二の軽井沢”がダメならば、今度は”第二のビル・ゲイツ”が現われないものかと期待しています。