2020年 新年のトピックス

本年も駒ヶ根のあるぷす不動産をよろしくお願いいたします。
駒ヶ根は、今年を占うかのような波乱と期待の入り混じった新年を迎えました。

トピックスのトップは駒ヶ岳ロープウェイの運休でしょうか。運行点検で支柱の変形が見つかり、復旧するまで不通となってしまったというニュースです。数年前にも同じような問題が起こったことを考えますと、既に50年を経たインフラを保つことの大変さを感じます。何よりも安全第一ですが、経済への悪影響は最小限にとどまるように祈っています。
(駒ヶ岳ロープウェイhttps://www.chuo-alps.com)

更には日本中で深刻な雪不足が駒ヶ根にも影響しています。駒ヶ根高原スキー場は人工雪スキー場ですから無関係のように思われますが、今年の冬は冷え込まず、人工雪を思うように作れなかった影響で本格的な営業は1月下旬からとなってしまうでしょう。

一方で明るい話題は、交通インフラの本格運用という話題です。
当社の前を走る国道153号線伊南バイパスは、市内の通行部分が2車線化しましたし、当社のすぐ隣の南田信号からは一気に広域農道までを結ぶ道路「中割経塚線」が開通しました。常々、並行して走る広域農道と伊南バイパスとのアクセスの悪さが指摘されていましたので、この道路は更に改良を経た後に市内の基幹道路となるでしょう。

そして最後になってしまいましたが重大なトピックを忘れてはいけません。1月26日は駒ヶ根市長選挙が行われます。3期12年を務めた杉本市長は引退し、新人候補2名の争いです。新市長は困難な時代に立ち向かうわけですが、市民の期待に応えて大いにご活躍をいただきたいと思います。

開通した中割経塚線(武道館西信号から撮影)

駒ヶ根駅前リニューアル工事完了

市街地再開発事業として駒ヶ根駅前広場がリニューアルしました。
しかしこのことを市民でさえ知らないのも事実で、それが今の時代を反映しています。市では「駒ヶ根市の玄関口としての魅力不足を解消したい」との想いがあるそうです。

高速バスがなかった時代、上京するためには駒ヶ根駅から特急列車に乗り込みました。当時の特急車掌さんは真白な制服姿でとても華やかでしたね。かつては東京とを結ぶ玄関口はただひとつ、駒ヶ根駅でした。
以前の駅舎内には喫茶室があり、近所のモダンなお年寄り達が集っていたように思います。あの緑色のジュースがクリームソーダだということを知ったのも、ずいぶんと経ってからでした。古くは、駅を出た左側に映画館もあったと聞きます。文化はいつも駅からやってきて、それを求める人々が駅周辺に集まる光景は何と眩しかったことでしょう。
駅舎の傍らでは、登山者たちが大きなリュックサックをおろして床で寝ている光景も日常的でした。今よりはるかに駒ヶ根駅は登山の玄関口としての役割を担っていたのです。中ア観光の赤いバスは、たくさんの登山客やロープウェイ客を乗せて重そうに黒煙を吐きながら駅前を発車、広小路を上って行きました。
駒ヶ根のランドマークは中央アルプスです。駒ヶ根高原/光前寺を起点に、インターチェンジを経て駒ヶ根駅に至るまでの線がより太く一本に繋がると、観光地・高速道路・高速バス・鉄道がすべてリンクすることに気づきます。街がリンクした日、駒ヶ根駅前は起点としてあるいは終点として再び輝きを発し始めることでしょう。このリニューアルはその一環であると期待しています。
では皆様また来年!

50年ぶり・中央アルプスのライチョウ

ライチョウ(雷鳥)は長野県指定の「県鳥」であり、国の特別天然記念物です。おそらく実際に目にされた方はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか?
その理由は、長野県を取り巻く北アルプス、妙高山、御嶽山、南アルプスといった限られた高山帯にしか生息しないこと。簡単に言えば登山をする人しか目にするチャンスが無い上に、しかもその名の通り「雷が鳴るような悪天候にしか姿を見せない」用心深さから、たとえ登山客でさえも出会うことが少ないのです。
中央アルプスにも以前は少数が生息していたそうですが、駒ヶ岳ロープウェイの開通による登山客の増加により、50年前には絶滅してしまったと言われていました。ところが近年、登山客により撮られた写真がライチョウではないか?と注目され、枝に引っかかっていた羽毛をDNA鑑定した結果「北アルプスから飛来した雌のライチョウ一羽」であることがわかりました。
雷鳥ってキジ科で飛べないと教わっていたのですが、どうやら20㎞位は飛べるのではないか?と今では考えられるそうです。それにしてもいったい何を思ったのでしょう…飛べると言っても一度の飛距離はちょっとでしょう?ちょっと飛んだり、歩いたり、隠れたりを繰り返しながらこの冒険心溢れる彼女は北アルプスからやって来たのです。
今では実家の北アルプスで採取した有精卵をそっと彼女の無精卵と差し替え、孵化させようとする作戦が環境省によって進められています。いつの日か「私、生まれも育ちもここ中央アルプス駒ヶ岳です」という雷鳥にハイマツの影で会える日が来るかもしれません。

画像はイメージ(長野県公式ホームページ>シンボル より参照)https://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kensei/gaiyo/shoukai/symbol.html

中央アルプス山麓美酒フェスタ

中央アルプス山麓一体は、酒造りが盛んなことをご存じでしたか?
それは「中央アルプスの伏流水」に依るところが大きいでしょう。日本最大の花崗岩山脈である中央アルプスからは、超軟水の伏流水が絶え間なく湧き出ます。
水は果樹や野菜、豊かな農作物を育て、次にそれらは多様なお酒に生まれ変わります。この循環サイクルが生まれる理由には「工業が盛ん」という地域性が大きく寄与しているからではないでしょうか。中央アルプス山麓では、ビール・ワイン・日本酒・焼酎・ウイスキー・リキュール類といった多種多様なお酒類が造られていることからもそれがわかります。材料の穀物や果樹を安定した品質に育てる技術も、それらを一定品質のお酒に造り出す技術も、実は「感」や「経験」に頼りすぎない生産管理や製造管理といった『工業』からの応用技術力が活かされています。

さて、これらの銘酒の数々を一堂に集めて飲み比べようという夢の企画が毎年行われているのをご存じでしたか?「第13回中央アルプス山麓美酒フェスタ」が10月4日(金)夜に開催されました。出展メーカーとリンク先をご紹介しておきますので、来年の14回目には是非ご参加されてはいかがでしょうか?
[第13回出店メーカー]南信州ビール(地ビール)、長生社(日本酒)、本坊酒造(ワイン・梅酒・ウイスキー)、養命酒(リキュール・クラフトジン)

駒ヶ根観光協会公式Facebook  https://www.facebook.com/komagane/

大御食神社の例大祭

大御食神社の例大祭が9月15日~16日の両日にかけて行われました。大御食神社のお祭りは、神輿を担ぐ荒々しい祭とは異なり、獅子行列が練り歩くのが特徴です。悪魔を振り払う獅子が赤穂の街を練り歩き、その前方をお練り行列が先導するわけです。横笛のお囃子が街中に鳴り響く中、古式ゆかしい一行はゆったりと歩を進めていきます。目にも華やかな装いの行列が続く一方で、どこか長閑(のどか)でゆったりとした時間が流れ、晴れ渡った秋の空の下では誰もが夢心地の気分です。
一転、神社境内に到着したフィナーレでは、胴体を切り落とされるのを察知したかのような獅子の激しい舞の後、「えい!」の一太刀で獅子頭が切り落とされます。激しさの余韻と、熱気を帯びた境内。そして最後は静かに祭壇に奉納された獅子頭。神事はこうして終わるのです。
あまりにも創建の歴史が古く、社史が刻まれた神代文字を神主でさえも解読できずに数百年。ようやくその神代文字が解かれ、歴史の壮大さが知られるのは明治になってからでした。創建以来1,900年、今もこうして例大祭は守られています。後世も、御祭神である日本武尊(やまとたけるのみこと)のご加護が続くように、氏子でお守りしていかなければなりません。

住みよさランキング10位に・駒ヶ根市

フィリピン人から、母国よりも暑いと言われる高原の街・駒ヶ根です。もはや熱中症対策としてのクーラー設置は、家庭や学校でも必須ですね。

さて、東洋経済新報社が毎年公表している「全国住みよさランキング」の2019年版が6月17日に発表され、駒ヶ根市は全国812都市中の10位(長野県内ではトップ)にランキングされました。
住みよさランキングとは、株式会社東洋経済新報社が毎年発表しているもので、「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」ほか、今回からは22項目に及ぶ指標から偏差値を算出し、すべての偏差値を平均したものだそうです。
総合評価の偏差値は10位駒ヶ根市「53.652」。1位の石川県白山市も54.231で肉薄しています。1位でさえ決して高くはない偏差値には疑問を抱く方も多いでしょうが、なるほど東京都心の3区は除外されていると公表されています。ともあれ、このランキングは田舎暮らし・移住先をご検討の方は是非ご参考にしていただきたいランキングだと思っています。

だんごの神様

当社は国道153・伊南バイパス沿いにありますが、すぐ南側の信号「南田経塚」をローソン方向に曲がって30メートル進んだ右側に「だんごの神様」と書かれた石碑があります。石碑と東屋とお墓という奇妙な3点セット。お墓なのに「神様」?であり、しかもなぜ団子?不可思議に思えるこのお墓は今でも土でこしらえた団子がお供えされます。
墓碑には「妙雪信女 享和元年(1801)」と刻字されており、220年ほど前に建立されたことがわかります。伝承板によれば、お墓の主は源蔵の母親とされ、団子屋に奉公していました。亡くなる時に団子が食べたいと懇願し、それを聞いた近所の老婆が団子をこしらえて届ける途中で転んでしまい団子には土が付いてしまいます。それでも母親は喜んでその団子を頂戴し、「お礼に、死後は私の霊魂で人々を助けてしんぜる」と言い残して亡くなったことから、いつしか「病気が治る」「子供が息災に育つ」と言われ、民俗的信仰を得ました。そして祈願成就のお礼には、土の団子と白手ぬぐいを供える風習から「だんごの神様」と呼ばれるようになったと言われています。今でもお供えされるお団子は、経塚のどなたかが神様を大切にされてお供えされているのでしょうか?ここからのアルプスは千畳敷がきれいに眺められる場所でもあることから東屋も建てられ、大切に守られている空間です。

 

中沢のお米

梅雨時期の水田には、絶え間なく雨の波紋が広がる駒ヶ根です。

田舎と言えども田んぼを持たない家は多数あります。現代ではお米は作るより買った方が安い位ですが、これが昔の話となりますと別のようです。田植えが終わった今回のブログでは、田んぼのない家に育った建築会社の社長さんからお聞きしたお米に関する思い出話をご紹介しましょう。
社長さんの家は旧伊那町(伊那市)にあって、田んぼが無い家でしたので、戦中から戦後の田んぼが無い辛さは身に染みているそうです。そんな子供の頃の思い出に「中沢のお米」が強く残っています。
「子供を手伝いに来させるように」との連絡が中沢村(駒ヶ根市中沢)の親戚農家から入ることがありました。すると自分が手伝いに行かされる訳ですが、早朝から出発して自転車を押しては火山峠を越えて行きます。一日を終え夕方になると、今度はタイヤがへこんでしまう程の沢山のお米を自転車の荷台に載せられて、また火山峠を戻ってきたのだそうです。子供にとっては過酷な一日ですから思い出も強烈なのでしょうが、社長さんは回想します…「今思えば中沢の親戚にしても、小さな子供の労働力などを期待していたとは思えず、『手伝いに来させろ』とは単なる口実で、子供が一日手伝ってくれたお礼という理由を付けて、お米をあげるのが目的だったんだな。」
大人になった社長さんは建築業で成功を収めました。あちらこちらの土地を買ってしまう土地への執着心は、田んぼが無かった辛さがそうさせてしまうのだそうです。伊那の社長さんと「中沢のお米」の話でした。

アルプスに沈む夕陽を映す中沢の田んぼ

クラフト展「くらふてぃあ杜の市」

「6月最初の土・日はクラフト展」と駒ヶ根では決まっています。
正式名称は「くらふてぃあ杜の市」と言います。今年のチラシを見るとVol.23とありますから、あっという間に23年もの長い歴史を刻んでいました。300にも及ぶブース数は全国的にも有数のクラフト展のハズです。
皆さんはどこかのクラフト展へお出かけになったことはありますか?クラフトフェアとか、マルシェとかという呼称で様々ですが、全国では何と700ヶ所ものクラフト展が行われているそうです。全国の工芸作家=クラフト作家は、自分の目標とするクラフト展に合わせて創作活動を行い、そこが発表の場や販売の場になるようです(ただし、厳しい出展審査にパスする必要があり)。訪れる人々にとっては、思いもよらない作品に心踊らされたり、感受性をくすぐられる作品に触れられて楽しいものです。
「くらふてぃあ杜の市」ではイベントを盛り上げるアルプスホルンの演奏や大道芸なども華を添えていて楽しめます。6月初旬の爽やかな駒ヶ根高原を満喫されてはいかがでしょうか?

「くらふてぃあ杜の市」公式ホームページ http://morinoichi.net/

天皇陛下と駒ヶ根

4月は駒ヶ根市議会選挙が行われ、若い世代の43歳・会社社長の新人候補が初出馬にしてトップ当選を果たすという印象的な出来事が起こりました。駒ヶ根市は元来、民間出身の政治家が似合う街だと思います。ニューリーダーの誕生は、令和と云う新しい時代を迎える象徴的な出来事になりました。

さて、平成の時代もあと数日となりました。我々の天皇陛下は皇太子時代に駒ヶ根市にお立ち寄りになられました。そんな昭和44年を振り返っておきましょう。
昭和44年(1969年)8月26日~27日、当時皇太子であられた陛下は、ご結婚後間もない美智子妃殿下を伴って上・下伊那をご巡幸されました。この目的は昭和天皇の名代として、「三六災害の復興のご視察」というものでした。下伊那から上伊那を回られながらその際に駒ヶ根市へもお立ち寄りになり、国の重要文化財に指定後で移築間もない旧竹村家住宅をご視察されました。2日間の短い伊那谷ご巡幸中に多くの市町村をお忙しく回られたご様子なのですが、残念ながら我々が当時の記録を目にすることはあまりできません。人から話を聞くことさえ50年も経った今では困難になりつつありますし、当時は存在した「赤穂新聞」などの多くの市町村紙も廃刊してしまった今では記録を紐解くこともできません。
駒ヶ根市民は唯一、旧竹村家住宅に残された若かりし当時の両陛下の写真に触れることで、「ああ、駒ヶ根にも来ていただいたのだ」と当時に思いを馳せるのです。