鯉食文化の衰退・伊那谷

鯉(コイ)は体格も大きく貴重なタンパク源として、日本はもちろん、東アジア~東南アジアの広い範囲で食べられています。
内陸である長野県・伊那谷においても、河川や湖沼に生息する淡水魚の鯉は「高級食材」として、祝儀の席や宴会のメイン料理として重宝されてきました。

かつては、母屋の脇に池がある農家も多く、野菜を洗ったり農具を洗ったりしていましたが、必ず池の中には食用の鯉を泳がせていたものです。大切なお客様を迎えると、池の鯉を捌いて砂糖醤油で煮た「うま煮」や、刺身「鯉のあらい」に料理して振る舞った記憶が残っています。
甘く煮たはずの「うま煮」であっても、当時の子供にとっては泥臭さや腹ワタの苦さ、何よりも大量の小骨があって苦手でしたが、一方で都会からのお客様にとっては「田舎の味」「信州と言えばコレ」ということで好評でした。

伊那谷で鯉を食べる機会が急激に減少したことは、養鯉業も仕入れ経路も変容したであろうことは容易に想像できます。「鯉のうま煮」を宴会料理に加えて欲しいと、料理店にリクエストすると「1,500円追加になりますが…いかがいたしましょう?」と言われたのが、既に20年前の話。
別の料理屋の店主も擁護するように言いました。「…お客から鯉のうま煮も付けろなどと言われると、昔と違って、飯田市のもっと遠くの下伊那の養殖業者に頼まざるを得ず、煮たやつを持ってくれば一切れ1,000円だと言う。店で煮直してから出すと1,500円だって合わない…」

江戸時代からの養鯉が有名で、将軍にも献上された「佐久鯉」で有名な佐久地方でも、鯉の食用需要は減り、養鯉業は衰退したと聞きます。新たな商品開発も行われているそうですが、小骨を大量に含む鯉の身を考えると、調理法・メニューの幅の広さに於いて、人気の養殖魚「信州サーモン」とは比ぶべくもありません。

数年に一度、小骨を取り除きながら、酒を飲みながら時間をかけてゆっくり食べるからこそ「鯉のうま煮」は貴重であり高級であったのでしょう。一方で食する機会がそんな程度だからこそ、食用養鯉業は衰退し、食文化が衰退する運命を辿ってしまったのが現状です。
冬から春にかけての「今」が鯉の旬だそうですが、もはや伊那谷では簡単に食べられる食材ではありません。

画像/あけびさん

 

 

6時のジョッキー

男女問わず、日本各地で60歳前後の「長野県出身者」がいたら、次のように問いかけてみてください。
「6時の?」「…?」「6時の?…」。おそらく、その長野県出身者はこう答えるでしょう「ジョ…ジョ、ジョッキー!」。
そう、合言葉は「6時のジョッキー」。

(誤りじゃなければ)それは1976年(昭和51年)から始まったNHK-FM長野放送局の「6時のジョッキー」というローカル音楽番組です。当時に思春期だった=今の60歳前後の中高年たちは、こぞってラジカセに耳を当てて聴いていたものです。

長野県の放送電波は決して良好ではありません。山岳地域なのと、駒ヶ根等の南信州からすれば、放送局は遥か長野市にあります。中継局をいくつ経由してもなお、ラジオを持って部屋中をうろうろしながら、聞こえる場所を求めていた当時を想い出します。
しかし、時代は「ラジカセ」ブームが始まります。カセットテープレコーダーにラジオチューナーが内蔵された一体型の夢の様な機器、これがラジカセです。これが地方にも普及し、思春期を迎えて「青春時代」に突入した若者は、自分専用のラジカセが買い与えられるようになった時代が1975年頃でした。

ところが前述の通り、AMラジオ番組では電波の入りも悪く、貴重なカセットテープに曲を録音するには勿体ない。FM放送は音のクリアさは別格でしたが、クラシック音楽や邦楽ばかりのNHK-FMでは、長野県の若者は欲求が満たされないのも当然です。
そこへ、ストンッ!と始まったのが「6時のジョッキー」でした。
クリアな音で、念願の歌謡曲やニューミュージック、フォークソングの数々が丸々一曲流れます。お気に入りの曲が流れる度に「録音」と「再生」の2つのボタンを同時にガチャン!と押して録音開始!ああ、これぞ青春のラジカセといった心持ちでした。

そして、日替わりのディスクジョッキーの女性たちの存在も番組が人気の理由でした。「公募」で選ばれた「一般」の女性たちが、リクエストはがきを淡々と読み上げる飾らなさと、番組進行のシンプルな美しさ。どこぞの「FMなんちゃら」のように、曲紹介に流ちょうな英語も使わず、受け狙いのトークなどは決して話さない清廉ぶり。その様子は神秘さを秘めていくのです。
SNSなどで顔写真が拡散されることもない古き時代に、結局最後まで容姿が公表されることも無く、想像するままに、DJ最終日を涙で終えていく散り際のはかなさ、美しさ。
NHKならではの、CMが入らない澄みやかさと相まって、シンプルに美しい45分間の毎日でした。


6時のジョッキーテーマ曲「Feel So Good/今は亡きチャック・マンジョーネ」
旧6時のジョッキーテーマ曲「ペーパーマシェ/フロイド・クレイマー」はこちら

36災害と伊藤市政2期目

能登半島の地震は、突然に多くの人々の命を奪い、救援に向かおうとする海保職員の命までも奪いました。神様の意思がどこにあるのだろうか?と考えます。

地表が4メートルも隆起した能登半島西海を、地元の金沢大学の先生が訪れました。辛さを耐えて述べる学者としての見解は、日本列島に暮らす日本人に向けられた普遍的なメッセージに聞こえます。
『今の能登半島は、地震活動を繰り返しながらちょっとずつちょっとずつ高くなった土地なのです。(辛く悲しい)今回の地震も特別なことではなく、長い能登半島の自然の営みのひとつなのです』ー

地震学において、日本のどこが危険度が高いかなどという地図の色分けは全く意味を持たないことはもう明らかです。日本列島は地震と噴火を繰り返してきた歴史であり、それは子や孫の代も続く事なのです。
その度に日本人は助け合い、次に備えて叡智を絞ってきた。どうやら日本人とは、その繰り返しのようです。

昭和36年、駒ヶ根市も周辺の町や村ともども大災害を経験しました。
昔の事とは言わせません。その時には130名以上の人が亡くなったのです。子供が土砂の生き埋めになったり、子供を抱いた母親が家の中で圧死したり、小学生を救い出そうと飛び込んだ隣家の夫婦もろとも土石流が押し流したのです。
700年に及ぶ歴史に終止符を打ち、集団移住を余儀なくされた四徳の人々でしたが、なお移住先でも困難な苦労、言われなき仕打ちを受けたことを知っている市民も多いはずです。
出動してきた自衛隊に対しても、当時は塩対応だったと聞き及びます。

1月21日の駒ヶ根市長選挙を終え、現職の伊藤市長が2期目の当選を果たされました。防災の必要性は十分に認識されているとはいえ、市が予算を費やして出来る防災対策には限界があるやもしれません。
ならば、駒ヶ根市民のソフト面の防災意識を、さらに2ランク高める施策は実現可能な気がします。
「こうなった時にはこうしよう」「そうなる前にこうしておこう」「こうしておかないと、災害時には大変だぞ」「災害時活用オフロードバイク登録制度」「災害用太田切川水汲み場の整備」等々、市民の一人一人が防災を考え、知恵を出し合い防災レベルを高めることは出来そうな気がします。結局は自分への備えであり災害関連死を防ぐ予防策でもあります。防災意識の高い駒ヶ根市民へ、市長の強いリーダーシップを期待します。

画像は長野県ホームページ「地図から読み取れる防災情報」より

スターバックスが不要な駒ヶ根づくり「市長選②」

駒ヶ根市長選挙は、一ヶ月後の1月21日に迫りました。
今や選挙は変わり始めています。18歳以上に選挙権が与えられた変化は確実に出ており、必然的に、投票行動を左右する役割をSNSが大きく担っているからです。
さて、この市長選において、現代ツールが優位に作用するのはどちらの陣営でしょうか?

ただでさえ、駒ヶ根市には年間200人の子供しか生まれません。2020年に32,000人だった人口は、2040年には26,000人にまで減少すると予想されています。驚愕な人口減少のその先も、いったい駒ヶ根市は市政を維持できるのでしょうか?
危機的な状況へ向かう市政にあって、未来を託せるリーダー選びはとても重要なのです。

今後は、市民の意識改革も必要になります。
例えば、「駒ヶ根にはスターバックスがない…」そんな嘆きを多く耳にします。しかし、全国チェーンが出店できない田舎度数の高さは、今も昔もこの先も変わりはしません。にもかかわらず、昭和の頃同様に他の街と同じである事を望み、そうならないことを嘆いていれば、早晩に駒ヶ根は「オワコン」を迎えます。
「…コーヒーチェーン店なんか無くたってさあ、駒ヶ根には素敵な店がいっぱいあるじゃん!」本来の街の姿とはそれが理想であり、市民こそが「駒ヶ根らしさ」を追求する美意識に変革すれば、街は再生へと歩み始めるでしょう。

例えば、大自然を有する八ヶ岳南麓一帯にもスターバックスなどありません。しかし代わりに存在するのは、魅力あふれるカフェやレストラン。都会人たちは、帰途の大渋滞を承知で、それらを目指してやって来るのです。
ロケーションに優る駒ヶ根がそうならないのはなぜか?
名古屋からも近いのに、名古屋のシェフやオーナー、銘店が駒ヶ根に出店しないのはなぜか?
「駒ヶ根に入ると、何か雰囲気違うね!」なぜ、そんな街づくりをしてこなかったのか?それを考え、それを政治にも問いかけるべきです。

この市長選から、いよいよネット世代が動かす選挙になることを期待します。若者よ、君たちが選挙を動かし、新しい駒ヶ根を創れ!

photo:5月の中央アルプス開山祭(駒ヶ根市観光協会Facebookより)
普通にこんな行事があるなんて、駒ヶ根ってスペシャルな街なのです。

 

駒ヶ根はオワコンか?「動き始めた市長選」

駒ヶ根市長選の投開票が、2024年1月21日に行われます。
二期連続トップ当選を果たす市議・松崎剛也氏(48)が8月に出馬を表明。早々に周知を図る戦略に出る中、再選を目指す現職の伊藤祐三氏(63)も、9月下旬になってから出馬を表明しました。
今、多くの市民が、街の未来に希望を抱けない状況です。果たして駒ヶ根は、このまま「オワコン」への道を歩んでしまうのでしょうか?

2020年にスタートした伊藤市政でしたが、任期のほぼ全てがコロナ禍であった事は不運であり、ひどく同情します。
おまけに、駒ヶ根市の財政再建問題は深刻なだけに、カネがない市政で腕を振るえと言われても、土台無理な話であっただろうことも理解しています。
一方で、経営者仲間からは、「市長はどんな街にしたいのか?」という声を多く耳にしました。「俺は駒ヶ根をこうしたいんだよ !」といった「熱量」を、せめて受け取りたかったのだろうと思います。経営者たちは、市長が目指す方向を共に向きたかった。市長が目指す駒ヶ根の未来像を、共に創造したかったのでしょう。
選挙選では、現職は大変優位な立場にあります。アドバンテージを活かして、2期目に向けた「伊藤流/駒ヶ根ビジョン」をお示しいただけることを期待しています。

一方、市議から市長への転身を狙う松崎剛也氏。初当選時から二期連続トップ当選を果たすことからも、「将来の市長候補」と囁かれていました。「ゴーヤ君」と慕われる人気ぶりと、48歳の若さと、溢れる熱量は魅力的です。
彼の演劇で培った経歴は、ひょっとすると市政に化学反応を生み出すかもしれません。瀕死の駒ヶ根にとっては、彼の芸能力が特効薬になる可能性があるという推測です。
民衆が弱っている時の芸能力とは大変なもので、空気を暖め、場を明るくし、高揚感を高め、ひいては明日への活力を与えます。
駒ヶ根市は閉塞感が支配して若者の活力を奪い、「駒ヶ根オワタ…」などと希望を奪い取っています。今の駒ヶ根市長にふさわしい人物像とは、市長自らが市民の中心で輝きを放つ、芸能力を持った人物が効果的かもしれません。
駒ヶ根市民の深層心理には、かつての中原市長のような、若い市長の再来を待ち望む気配があることも、選挙戦を左右する注目点と思います。

どちらが市長になるにせよ、輪の中心には一生懸命盛り上げようとする市長がいて、遠巻きの市民も「まあ、じゃあ、俺らもやってみるか!」といった「駒ヶ根モデル」の再来がなければ、この街は本当に「オワコン」になってしまう気がします。

photo: 2万年もの間、駒ヶ根を見守る千畳敷カール。

山岳救助の有料化を考える

10月7日、中央アルプス山頂付近は霧氷で覆われたとのニュース。急速に冬山へと向かいながら登山シーズンは間もなく終わりを迎えます。
10月10日までの長野県内の山岳遭難は245件発生。死者29人は昨年を上回っています。

さて9月14日、中央アルプス木曽駒ケ岳の山頂付近(標高約2,900m)での救助活動です。神奈川県の無職の男性(67)が「疲労のため動けなくなった」と、本人が救助を求めました。長野県警山岳遭難救助隊などが出動し、男性を背負って下山。病院に搬送しましたが、けがもなく無事だったという救助活動です。警察は、「自分の技術や体力に見合った登山をするように!」と注意を呼びかけたというものです。

もう一つは北アルプスでの出来事。9月17日の午後3時半ごろ、前穂高岳の標高2,900メートル付近で「小学1年の男子児童6歳」が動けなくなったと、同行する保護者から救助要請がありました。長野県警山岳遭難救助隊が出動して、午後7時過ぎに近くの山小屋まで連れ帰ったという活動です。

登山ブームは収まることを知りません。
TV番組やYouTube動画でも、画面が映し出す山岳風景は美しく、解き放たれた別世界に多くの人が憧れます。一方で、「山をなめてはいけない」…麓に暮らす我々は誰もがそれを知っています。ましてや6歳児の北アルプス登頂が無謀だとも、誰もがわかります。無謀な登山には死が待ち受けることを誰もが知っています。

前述の遭難者たちは、救助費用に対していくらを支払っているのでしょうか?
答えは「無料」。たとえ救助ヘリが出動したとしてもタダだったはずです。今後も、「疲れちゃった…」という理由による救助が増加するならば、その救助費用は請求されるべきではないか?と一般的な感情が湧きます。

埼玉県では、2018年に「山岳エリアで、救助のために防災ヘリが出動した場合は有料とする」条例が施行されました。料金は5分ごとに5000円。過去の平均救助時間は1時間程度とのことなので、その費用は約6万円かかります。
埼玉県以外で、救助費用の有料化を行う自治体はありませんが、長野県と山岳を共有する隣県は、協議を進める必要があるかもしれません。タクシー代わりの救助要請が、容易く許される日本の登山文化であってはなりません。

初冠雪時の中央アルプス・千畳敷カール

 

青崩峠トンネルと秋葉街道

5月に、三遠南信自動車道の「青崩峠トンネル貫通」のニュースがありました。
「それは遠い遠い、南信州の出来事」と思われた長野県民も多いことでしょう。しかし、このトンネル貫通は「道の歴史」が再び甦ることであり、「再び歴史が動き出す」一大事でもあるのです。

中央自動車道~新東名高速道路を結ぶ100Kmの「三遠南信自動車道」は、40年前の着工にもかかわらず、「コンクリートから人へ」の民主党政権下では工事も進まず、さらには「トンネル掘削は技術的に困難」とも言われ、あきらめムードが漂っていました。
そんな折、時の田中康夫長野県知事が誕生します。彼も「脱ダム宣言」などの、民主党に近い政策を掲げる一方で、県政から取り残された下伊那郡に想いを寄せていたのは事実です。国道152号線を県が整備して「供用して使う」プランにより、棚上げされた三遠南信自動車道を動かそうとします。

その国道152号線。下伊那郡に入ると「酷道152号線」などと揶揄される酷い道です。2か所が崩落で寸断する、地図上だけの国道なのです。
けれども、これは行政の手抜きを批判するだけでは済まない地形学上の問題を抱えています。152号線そのものがフォッサマグナ・中央構造線の直上であり、今この瞬間でも東西の岩盤プレートどうしがぶつかり、動いている最前線の地表を国道152号線は走っています。
どうしてそんな道が国道に?とお思いでしょうが、国道152号線のルーツは古道「秋葉街道」と呼ばれる主要な街道であり、歴史深い道なのです。

秋葉信仰をご存じでしょうか?
御祭神「火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオカミ)」は火災除けの神様として、北海道から奄美諸島まで数多く「秋葉神社」が存在する通り、日本における最も身近な火伏せ信仰です。
江戸時代には日本全国から、現在の浜松市天竜区にある「秋葉山本宮・秋葉神社」へ参拝することが日常化しました。
信州の人々もまた、諏訪大社前宮の横から高遠へと南下し、分杭峠~遠山郷から青崩峠を越えて秋葉神社へと向かったこの道を「秋葉街道」と呼んできました。

昔は激流の天竜川など渡れません。秋葉街道はそうした難所を避けられ、諏訪から太平洋に抜けられる最短の街道だったのです。
そのため、遠州からは「塩の道」でもあったと同時に、武田信玄が織田・徳川との戦に進軍していたのもこの街道です。それ以前も南北朝の争乱期には、大鹿村大河原の地を拠点にしていた後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)が再建を図ろうと、諸国を頻繁に往来していたのも秋葉街道。もっと遡れば、源氏に敗れた平家が秋葉街道を北上し、さらに東西の山中へと分け散って生き抜いてきた道です。
多くの人が行き交ったはずの街道の歴史が、昭和の時代に寸断されてしまいました。

青崩峠トンネルの貫通によって、いよいよ三遠南信自動車道の開通が視野に入ります。それは秋葉街道が現代に蘇り、歴史が再び動き出すことでもあるのです。
駒ヶ根からは中央道を南下し、飯田山本ICから三遠南信自動車道へ分岐すれば、蘇った「秋葉街道」を行き、新東名高速道路・浜松いなさJCまでは1時間半ほどでしょうか?。皆様ならば、そこからどちらへ向かわれますか?子供を海へ連れて行くには太平洋が近くなりますね。
経済効果がどうのこうのより、秋葉街道が再び往来を生み、人と人とを結び、新しい友人や恋人、家庭を生み出すのは確かでしょう。
当社では、「徳川家康ゆかりの地」を巡ったり、沢山の海産物を駒ヶ根に持ち帰ることを想像しながらワクワクしています。

秋葉街道の由来「秋葉神社」 (photo/matsuemon)

終戦の日・共楽園の「忠魂碑」

20年ほど前です。アメリカの空港で搭乗待ちをしていると、何やら拍手が起こり、徐々にそれが近づいて来ます。目をやりますと、丸刈りにしたあどけなさが残る若者たちの列を、空港職員が小さな星条旗を掲げて引率しています。それは軍に入隊するために地元を旅立つ若者たちで、周囲の誰もがスタンディングオベーションで見送る光景でした。

数年前の双葉サービスエリアです。
深夜の帰宅途中、トイレ休憩を済ませていると、自衛隊のトラック数台の車列が入ってきました。
隊員を運ぶトラックのようですが、さぞかし乗り心地も最悪でしょう。疲れた様子の隊員たちは、全員が物静かにトイレを利用していました。
大人数の移動なので、無意味な批判を避けようと、あえて深夜に移動しているのだと直感しました。とても申し訳なく思ったものです。

さて、8月15日は「終戦の日」です。
あれだけの大戦でしたから、戦争で亡くなった人は皆様の身近にきっといるはずです。しかし戦後から78年、史実の風化も加速しています。父方や母方を辿れば、軍人や徴兵で亡くなれた方。戦禍によって命を落とされた女学生や民間人。満州から帰国できた婦女子、帰れなかった一家。いかに戦争とは悲惨かを学び、平和の尊さに感謝しなくてはいけません。

さて、平和の礎となられた方々へ感謝の心を捧げたくても、「靖国神社」へは駒ヶ根からはあまりに遠いものです。しかし、各都道府県には「護国神社」というものがあります。靖国神社同様に、日本国のために殉難した人の霊をお祀りしている神社です。
長野県は、松本市の信州大学隣にある「長野懸護國神社」がそれであり、駒ヶ根からはクルマで1時間ちょっとで行かれます。

また、駒ヶ根市北町の「共楽園」には、木立の中に「忠魂碑」というモニュメントがあります。これは旧赤穂村から出征し、戦場で還らぬ人となってしまった軍人方々の慰霊碑です。お参り場所ではありませんが、鎮魂の一礼を捧げる人は数多くいます。
石碑に刻まれた人々は、人生を戦地で終えられた方ばかりです。私たちの様に、病院のベットで家族に看取られながら終える生涯ではありません。明日なき戦場で怖くなかったのだろうか?きっと、故郷の駒ヶ根に戦禍を波及させない為、駒ヶ根に暮らす父母兄弟や妻子に平和な暮らしをさせる為に、今、俺が、この地で頑張ろうとする必死さが、戦場での恐怖を打ち消していたのでしょう。
平和を勝ち取るために命を差し出した先人を踏み台にして、私たちはボケーっと暮らしていることを学び直します。

そして今の時代にも、平和を守るためなら命を差し出さん覚悟の自衛隊員がいて、しかも災害だと言われれば寝食も取らずに任務を遂行し、移動するにも国民に遠慮をして、深夜ひっそりと行動する。
優先的に圧遇される米国軍人と対照的な自衛隊員。
日本の在り方を学ぶ終戦の日でもあります。

木立の中の「忠魂碑」共楽園

「木曽義仲の伊那攻め」

2023夏山シーズンを迎えた駒ヶ根です。
中央アルプス山麓の街・駒ヶ根市。西側にそびえる山脈の日本名は「木曽山脈」です。その由来となる、駒ヶ根の反対側の谷を「木曽谷」と言います。深い木曽谷には、かつて源氏の武将「木曽義仲」がいました。それは今から約850年ほど前の時代です。

「木曽義仲」は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の序盤にも登場しましたし、数多い歴史登場人物なので、皆様がそれぞれに「木曽義仲」の人物像をお持ちでしょう。ドラマで多く描かれる通りの、如何ともし難い田舎者だったことは明らかなようですが、一方で結構イケメンだったそうですから意外です。
さて、今回は夏山シーズンに因んで、「木曽義仲が中央アルプスを越え来た!」という、マイナーな歴史を学んでみましょう。

史実に乏しいのですが、正しくは「木曽義仲の伊那攻め」あるいは「木曽殿越え」等と呼ばれているようです。
平安時代の末期、「京」の皇族・以仁王(もちひとおう)から全国の源氏に発せられた命令「平氏を追討せよ」により、源氏と平氏の争いが激化しましたね。
京へ上って大出世する以前の木曽義仲も、信濃のみならず北陸にまで戦に出向いていたようです。時はその頃の話です。

現在の伊那市美篶(史蹟 蟻塚城址付近)に、豪族・笠原氏がいました。源氏の木曽義仲は降参を促しましたが、笠原氏はこれを拒否。怒った義仲は何と中央アルプス/木曽山脈を越えて伊那へ攻め入ったというのです。これが「木曽義仲の伊那攻め」「木曽殿越え」。

標高2800mを越えて進軍したとは、にわかに信じがたい話ですが、隣接する宮田村新田地区には、その伝承を伝える「駒潰れ」と呼ばれる岩が残っています。
木曽義仲軍が山脈越えを果たし、ここまで下って来たものの、あまりの険しさに疲れ果てた馬が立ったまま死んでしまった。岩に残る「蹄」の形は、その時の跡だとされる伝承話です。
どれほどの軍勢だったのか?真実は険しい峰々を迂回した伊那入りだったのではないか?いや、山脈越えは事実だが、少人数によるゲリラ戦ではなかったか?等々…想いは巡りに巡ります。

どうやら山脈越えは真実だったのではないか?と思わせる決定的な「水場(みずば)」があります。
そこは何と、中央アルプス空木岳とその西側の東川岳との間、標高2497mの鞍部の登山道にある水場で、「義仲の力水」と呼ばれています。
伝説では「1180年(治承4年)に、武将木曽義仲がここを越えた」とされています。これが「木曽殿越え」のルートだったのでしょう。
ほど近い山小屋の名も「木曽殿山荘」。
進軍は木曽の大桑あたりから山中へ分け入ったのでしょうか?。空木岳から駒ヶ根高原に下り、最後に太田切川を渡るとそこが宮田村新田です。千畳敷を迂回したとしても、やはり宮田村新田に下ります。

その後の戦は順番に進めたものだったのか、軍を二手に分けたのかは定かではありませんが、天竜川東岸の笠原氏居城「蟻塚城」と、天竜川西岸の支城「鷹待城(現在の伊那市西箕輪吹上)」は共に落城し、焼き払われました。以降、伊那は木曽義仲の領地となったという歴史です。

南アルプス山系にある伊那市長谷「浦」地区は、平氏の落人集落とされる場所です。今の時代であれば、笠原氏居城跡からはクルマで40分ほどの距離。源氏も平氏も、両者の歴史が現在に通じていることを想うとき、実に伊那谷は歴史と歩んだきた土地であるかを思い知らされます。

「大日本六十余将」より『信濃 旭将軍源義仲』、大判錦絵 /出典:ウィキペディアより

松本空港と駒ヶ根の新婚さん

田植えが終わった駒ヶ根です。
「6月に結婚した花嫁は幸せになれる」日本でも通用する話かどうかは別として、農作業が一段落した6月の結婚式は、地方にとっては都合が良いのも事実です。
コロナ明けですから、新婚旅行も海外渡航が復活することでしょう。
ところが、駒ヶ根の新婚さんにとって、それはそれは大変な長旅が待ち受けているといったお話です。

長野県には『松本空港』があるだろう?
そうおっしゃいますが、交通手段としては利用しにくいのが実情です。
一般的には、地方空港はハブ空港(羽田・伊丹など)と結ばれているので、県内の空港へ行けば、国内線~国際線の乗り継ぎで海外へ出られます。成田出発だとしても、羽田からは電車で90分。海外旅行ともなればそれも楽しい時間です。

さて松本空港ですが、駒ヶ根からは高速道路で50分。数日間の駐車料金も無料です。ならば、松本空港から海外へGO!楽ちんだね!って…残念ながらそうはいかないのです。羽田との空路は無く、「近すぎるのか?…じゃあ伊丹?」ってそれもありません。
定期便は札幌・福岡・神戸線に一日一往復ずつ。お察しの通り、主たる利用目的は観光用にとどまり、移動の為の交通手段としては利用しにくい理由がここにあるのです。
海外ツアーの出発地は羽田・成田・関空のいずれか。出発便も決まっていて、更に重いスーツケースもありますから、結局のところ駒ヶ根の新婚さんは、成田空港までクルマで行く手段に限られるのです。

Googleマップでは駒ヶ根=成田間は4.5時間。しかし、休憩時間や東京近郊の渋滞も考慮すると、実際は片道6.5時間を運転する地獄の長旅です。いっそのこと、飛行機を乗り継げる九州・四国・山陰の新婚さんの方が、はるかに楽な新婚旅行でしょう。

確かに、残念ながら、松本空港は県民の翼にはなっていません。しかも、毎年5億円の経常赤字を生み続ける空港であり、県からの一般財源が主な収入源です。旅客機の発着による航空事業の収益はわずかであるという空港なのです。

しかし、県民の翼ではなくても、松本空港の存在意義とは「県民の命を空から守る」事であることに揺るぎはなく、山岳救助ヘリやドクターヘリの重要な基地であり、何よりもNAGANOの空の玄関口が常に開いている意義は大きいのです。
かつての長野オリンピック時、各国の選手団は陸路と長野新幹線でやって来ましたが、ヒコーキ大国アメリカ代表団は関空に到着後、チャーター機に乗り換えて松本空港に降り立ちました。あれは松本空港が最も存在価値を発揮したハイライトシーンです。

山脈に囲まれた松本空港は日本で唯一、着陸誘導装置が使えない空港のため、パイロットたちは目視と飛行技術だけで着陸しています。この事も、定期便を多く運用させられない理由の一つかもしれません。
空港拡張とジェット旅客機の就航から30年。次の30年に向けて展望が明るい空港かと言えば、残念ながらそうは思いません。
ならば、リニア中央新幹線がそれを補う役割を果たすのでしょうか?
少なくとも、駒ヶ根の新婚さんにとっては、リニア開通によって海外が急速に近くなることは間違いなさそうです。

松本空港から離陸するFDA(フジドリームエアラインズ)