「ベイブリッジ号」と「こまがね号」と「リニア中央新幹線」

伊那バス運行の飯田発・駒ヶ根経由ー横浜行きの高速バス「ベイブリッジ号」は、コロナ禍で運休中ですが、恐らくはこのまま廃止されるのではないでしょうか? 京王バスや信南交通はずいぶん前に撤退していることからも、そんな危惧を抱きます。
朝夕1本ずつの便でさえ赤字路線ではなかったかと、乗客数からは察しますし、路線バスの宿命なのでしょうが、「圏央道」が開通した後も、それを通過し都内から迂回する「許認可道路」を走り続けた4時間半の旅でした。

かつての新宿駅から横浜への電車移動は、面倒で時間もかかりました。
一方で、伊那北高校や飯田高校などの南信地方からは、毎年およそ30名が神奈川大学や横浜国大へ進学するようですし、横浜への観光需要は安定的に見込めますから、高速バス「ベイブリッジ号」が果たした役割は大きかったはずです。
ところがここ10年のうちに、東京都内の鉄道の利便性は格段に向上しました。オリンピック景気が追い風でしたが、「ベイブリッジ号」には逆風でした。電車で新宿ー横浜間が近くなったので、新宿着・発の高速バスを利用した方が遥かに柔軟というわけです。
バスターミナル「バスタ新宿」の開業も、ベイブリッジ号にとっては不利でした。

とは言え、高速バスは鉄道路線を数多く奪うことで発展してきたのです。旧国鉄の天竜峡発-新宿行き「急行こまがね号」の廃止もその一つでした。
飯田線を行く4両編成の「急行こまがね号」は辰野駅まで向かうと、松本からやってきた8両編成の「急行アルプス号」のお尻に連結されてから、中央本線を終点の新宿駅まで直通した急行列車でした。旧国鉄時代の昭和61年(1986年)まで運行されていましたが、ダイヤを廃止に追い込んだのは中央自動車道の「高速バス」です。
「急行こまがね号」の乗車時間は駒ヶ根から約5時間半の長旅でしたが、白づくめの華美な制服の車掌さん、順番に通過する駅の旅情、流れる車窓の豊かさは想い出深いものでした。列車内の誰もが旅人で、上京する鼓動の高まりとレールを叩く音。「急行こまがね号」は心を運ぶ列車でした。

さて、変遷を繰り返してきた交通の歴史は、新たな時代を駒ヶ根にもたらそうとしています。
リニア中央新幹線が開通する数年後、飯田駅から橋本駅あるいは品川駅までは、各停乗車で40~50分で到着するようです。飯田ー駒ヶ根間のアクセスは、クルマですと座光寺スマートIC利用で片道35分。つまりそれは、駒ヶ根市から2時間後には銀座三越に到着。もっと遠くても浅草雷門くらいは2時間で行かれる世界なのです。
横浜や八王子に暮らす大学生のご子息の帰省時間も半分の2時間少々。しかも中央道の渋滞に関係なくオンタイムで駒ヶ根へ帰って来ます。
それは現実で、間もなくやって来ます。

2023年が未来へ繋がる良い年になります様に。
皆様のご多幸をお祈り申し上げ、今年最後の記事にいたします。
ありがとうございました。

飯田線(JR東海115系)

小平奈緒選手の引退と伊那谷スケート

紅葉が燃え盛る駒ヶ根です。
去る10月下旬、スピードスケート冬季五輪の金メダリスト小平奈緒選手が引退しました。
他を寄せ付けない圧巻のスピードで全日本女子500mを優勝した姿からすれば、「引退する必要があるのか?」と、誰もが思うほどの強さと速さ・完成された美しさでした。

小平選手は中学~高校にかけて、名コーチである新谷純夫氏(宮田村)に師事しました。ご自宅へ下宿をし、伊那西高校へ通っていたものですから、伊那谷の人々は地元の選手とさえ思っています。新谷氏は2010年バンクーバー五輪に出場した新谷志保美さんのお父様でもあります。それほどまでに、かつての伊那谷にはスケートが根付いており、新谷コーチほどの名伯楽さえも存在したという事実です。

冬のシーズンを迎えると、「小平奈緒」選手の名前はニュースや新聞紙面を賑わし、ついにオリンピックの金メダリストにまで昇り詰めました。子供の頃から打ち込んできたことが開花することはあっても、世界で1番を取れる人など存在し得ません。そんな小平選手が引退するのですから事は重大に決まっています。しかし伊那谷の人々にとって小平選手の引退は、「伊那谷のスケートよ、さようなら」そんな歴史の終わりを印象付ける様な出来事だったように思えます。

昭和55年位までの伊那谷には、至る所に田んぼのリンクが存在し、どこの小学校でも「スケート大会」を行っていたほどでした。身近なスケートですから、小学生ともなれば子供という子供全員が親からスケート靴を履かされ、田んぼの氷の上に立たされたものです。
当時、飯島町の千人塚スケート場は憧れの天然スケートリンクで、湖上に2面作られたリンクには埋め尽くさんばかりの老若男女が集まり、伊那バスは「千人塚行き」の定期便を数多く運行させていました。あんなに身近で楽しかったスケートだったのに、天然リンクが出来なくなった伊那谷にとってはもう遠い過去の記憶遺産です。自分がしてもらったように、子供や孫へスケート靴を履かせる光景を見ることはありません。

それでも、冬になれば小平選手がスケートで活躍するニュースは、伊那谷の人々とスケートとを結び続けていたのです。それがいよいよ引退してしまいました。最強で唯一の誇れる伊那谷スケーターがいなくなってしまった瞬間、伊那谷のスケートはとうとう想い出の中へ、図書館の歴史書の中へと旅立った気がします。
再び世界を駆けるスケーターが伊那谷から誕生しますように…。
画像/千人塚センターハウスに展示中のパネルより https://www.senninzuka.site/

「鉄道の日」共楽園のD51

紅葉が始まった駒ヶ根です。
10月14日は「鉄道の日」、新橋~横浜間に鉄道が開通してから今年は節目の150年となります。駒ヶ根市最北にある公園「共楽園」に展示してある蒸気機関車「D51」について思いを寄せてみましょう。

この蒸気機関車は決して「飯田線」を走っていたわけではありません。もともと飯田線は「伊那電気鉄道」という名の私鉄であり、直結していた豊橋までの私鉄3社と合わせて戦時中に国有化されたのが飯田線です。そんな背景から蒸気機関車が飯田線で運用された記録は無いようです。

さて、共楽園の蒸気機関車の鼻先の銘板には「D51 837」と刻印されています。
D51は日本で一番大きな蒸気機関車で、最も多く製造された機種です。そして、その837番目に製造されたという車歴を意味しています。
この837番車は1943年度製で、国鉄鷹取工場(兵庫県神戸市)で製造されたことがわかります。大東亜戦争真っ只中の1943年は、南太平洋での戦況が悪化していた頃。そんな時代にこの機関車は生まれました。

岡山へ配置されてからは「伯備線」、つまり山陰地方をタテに縦断しながら走っていたのでしょう。のちに山口へ配置換えされてからは「山陽本線」で活躍したそうです。そして1974年に引退。その年のうちに、見知らぬ土地ではあったものの、ここ駒ヶ根に安住の地を与えられてやって来ました。

1970年代は、引退した蒸気機関車が国鉄から全国の自治体へ無償で譲渡された時代でした。戦時中に大量生産されたこともあり、国鉄が所有する蒸気機関車は1,115両に達していたと言われます。国鉄はそれら機関車の処分を免れると共に、一方で全国の街では喜んで蒸気機関車を譲り受けたのだろうと思います。駒ヶ根、伊那、飯田、諏訪、岡谷、茅野…近隣の街にも必ず、どこかに蒸気機関車が保存されています。

シンボルだったり、子供たちの遊具だったりといった引退後の役割は果たしたものの、あれから50年を迎えようとしています。実物保存にはメンテナンスが必須で、予算と覚悟も必要です。多くの自治体では、今や「公園の蒸気機関車」はお荷物だと言われ、解体するにも2,000万円の費用が掛かると言われます。共楽園のD51はペンキ補修が行われてはいますが、あの眩しかった「デゴイチ」も、年月と共に朽ちゆく姿は否めません。各地の朽ち行く機関車を見るのは悲しいものです。かつて逞しく強かったはずの姿からは、声なき声を発しているような錯覚を覚えます。将来駒ヶ根市も、決断を迫られる日を迎えるのでしょうか。

画像/駒ヶ根市・共楽園に展示中のD51(837)

中央アルプス「檜尾小屋」(ひのきおごや)

紅葉の登山シーズンを迎える駒ヶ根です。
中央アルプス檜尾岳(標高2,728m)から300mほど伊那谷側に、「檜尾小屋」があります。1950年代~2021年(令和3年)までの長期に渡り、10名ほどを収容できる無人の「避難小屋」でしたが、今シーズンからは有人化された「山小屋」として新たな歴史がスタートしました。

元々は、遭難事故で亡くなった登山者の父親が「二度とこのような事故が起こらない様に」との願いから、自費で避難小屋を建てられたのが始まりと聞きます。
最初は石積みの室小屋だったそうですが、木造トタン葺の小屋になってからも、あくまでも小さな避難小屋のままでした。

駒ヶ根市では、この小屋をトップシーズンの7月~10月だけは有人の山小屋として運用できるようにしたいとの改修計画を立てました。
一つ目の理由として、中央アルプスが抱える安全性の課題克服が挙げられるでしょう。
中央アルプスの縦走は多くの登山者の憧れのひとつでもありますが、最も深刻な問題として、長い縦走距離にもかかわらず有人の山小屋がアンバランスな配置であると言われます。ひとたび避難に迫られた時でも、この檜尾岳の避難小屋のみで、且つテント場さえ無いという状況の危険性を指摘されていました。

2013年には檜尾岳付近で、韓国人パーティー4人が亡くなった遭難事故が発生します。登山知識に乏しい軽装での入山だったそうですが、中央アルプスはアップダウンの激しさやガレ場の多さと藪漕ぎの多さ、加えてコースがわかりにくいという難所でもあります。
きっとロープウェイの存在が観光色を強くし、険しい山岳イメージが薄らいでいるのかもしれません。
今後の檜尾小屋の有人化が果たす役割は大きいはずです。

二つ目の理由は、中央アルプスの「国定公園」化でしょう。以前にも触れましたが、中央アルプスは「国立公園」ではなく「国定公園」ですので、管理する市町村の自由度が与えれています。
駒ヶ根市はこのルールを上手に活用したのではないでしょうか。リニア開通を念頭において、中央アルプスを有する駒ヶ根市にとっては、観光資源の魅力向上にもつながる施策となったはずです。
簡素な避難小屋を増築して収容人数40人に拡げ、同時にテント場も周囲に整備しました。他の営業小屋に比べれば食事などの提供もありませんので見劣りはします。それでも登山者にとっては「時間に追われる縦走」から解放され、安全と安心を得られることができました。

改修費用に関する話も付け加える必要があるでしょう。
8,550万円の改修費用を見込んだ駒ヶ根市は、一部の300万円をクラウドファンディングに委ねてみたのです。更には、プロジェクトをより多くの山岳愛好家に知ってもらうために、登山アプリ「YAMAP」を運営する株式会社ヤマップとコラボするなどした結果、目標を大幅に超える寄付金額764万4千円を募ることができたのです。
山を愛する人たちと共に改修を終えた「檜尾小屋」の更なる発展を期待します。

予約・お問い合わせ【檜尾小屋】
https://www.hinokio-chuoalps.com/
電話 090-7957-7650

無電柱化と駒ヶ根市

先日、山梨県内を走行中、「心地よい空間」に入りました。何かが違う…その通りには電柱・電線が無いことに気付きました。しかしその時に強く思ったのは、観光立国を掲げる長野県こそ「無電柱化の先進県」であってほしいという願いです。

もちろん長野市では、善光寺参道や市街地の多くで電柱・電線はありませんし、松本市でも駅周辺や松本城周辺は無電柱化されています。2つの地方都市は、日本を代表する門前町と城下町のため、市街地の再開発スピードも速く、連動して無電柱化を行えた背景があります。

一方で、他の県内市町村ともなれば、とてもそんな訳には行きません。
しかし、印象的なのは「しなの鉄道」沿線の街は、無電柱化された駅前通りが多いという事実です。きっとその背景には、長野北陸新幹線の開通と引き換えに信越本線をJRが手放すことによる街の衰退に危機感を抱いた市民と行政があったのでしょう。官民が一体となった「強い意志」による無電柱化事業が行われたのではないかと推測します。=長野市の篠井駅前通り=千曲市の矢代駅前通り=上田市の駅前通り=小諸市の駅前通り=は、無電柱化された清々しい景観を見せています。

白馬村駅周辺では、2年がかりの無電柱化工事が現在進められています。世界に誇るスノーエリアにとっては大変有意義であり、これが長野県内全域へと波及すれば、ヨーロッパの山岳風景にも負けないNAGANO,JAPANに生まれ変わることでしょう。

さて、駒ヶ根市はどうなのでしょうか?
実は「駒ヶ根ファームの前面」と「JR駒ヶ根駅の前面」の極々狭い場所での無電柱化にとどまっているのが現状です。ほぼ進んでいない残念な気持ちと、同時に財政が乏しい駒ヶ根市では仕方ないか…とのあきらめ気分が交錯します。
大きな自治体では、「無電柱化推進計画」なる特化した事業計画が存在しますが、駒ヶ根市には未だ存在しないようで、どうにか見つけた資料を要約すると「市街地の再開発を進める時には、無電柱化も同時に行いましょう」といった副産物的な内容で記載されるに留められています。

東南海沖地震が発生した際は、多くの電柱が倒れ、絡まった電線が避難者や救助の行く手を阻むでしょうから、無電柱化には「防災」の側面もあります。
電柱・電線の無い、澄み渡った景色の、そんな駒ヶ根の未来が早く訪れることを期待してやみません。

(多くの場合、この様に電柱と電線が映り込んでしまうのです…)

西駒登山(にしこまとざん)

7月になると駒ヶ根市を含む上伊那郡の中学2年生は、「西駒登山」と称して中央アルプスへの山岳登山を行います。「西駒」とは我々が暮らす西側にそびえる駒ヶ岳という意味の略称です。梅雨が明けた夏山を狙って、一斉に上伊那郡下10校の中学生たちが1泊2日で3,000m級の木曽駒ヶ岳~宝剣岳山頂を目指すのです。
これは昔からの地域の伝統行事であり、考えてみれば実に長野県らしい行事です。諏訪地方の中学生も「八ヶ岳登山」を行うと聞いたことがありますが、全県的な行事かどうかは知りません。
くれぐれも繰り返しますが、トレッキングや軽登山ではありません。アルプスへの本格登山です。

ですから登山本番の数か月前にはリュックサックを購入し、砂袋を詰めて重くした中へ教科書なども入れて登下校することから準備は始まります。
更に登山のひと月前には「予備登山」を行い、標高1,500m程度の里山を一日がかりで練習として登山する行事が先にあるのです。
そうして迎える本番は、健脚な若い教職員数名と保健体育の教職員、父兄代表数名そして山岳ガイドを付けたパーティーを形成します。早朝4時半には学校に集合し、明けきらない暗い中を数台の伊那バスで登山口まで送ってもらったことを記憶しています。

映画ファンならご存じの方もいらっしゃると思いますが、鶴田浩二・三浦友和主演による「聖職の碑(せいしょくのいしぶみ・原作小説/新田次郎)」という映画がありました。実はこの映画は、我々の「西駒登山」で起こった、実際の山岳遭難事故を題材にしています。悲惨な山岳事故でしたが、それでも上伊那郡の中学校は「西駒登山」を中止にせず、続ける選択をしました。

自分たちの山を、大人になる試練として登っておく。そういう事なのだと思います。上伊那版スタンド・バイ・ミーといった感じかもしれません。
中学2年生程度の体力では、まだまだ3,000m級を登るのはとても苦しいことです。未知の行く手には容赦なくガスが辺りを阻み、激しい雨が中学生たちを叩きます。それでも、いつもは意地悪な彼が手を差し述べて同級生を引っ張り上げ、山小屋では質素なカレーライスを皆でほおばり、21時には互いが抱き合うようにして狭い空間で眠りに落ちます。翌朝、山頂で迎える御来光に照らされた時、オレンジ光の眩しさを皆が黙って見つめていたのはなぜでしょう?
親や先生、県や教育委員会は、こうした体験をさせる道を敢えて選んだのです。

中央アルプス・宝剣岳山頂付近尾根     画像/CLUBMANx様より

伊那七福神めぐり

梅雨の駒ヶ根です。
雨の季節にこそ巡ってみたい“小さな旅”のご案内です。
皆様、「伊那七福神」をご存じでしょうか?地元の方なら名称こそ知れ、実際に巡ったという方はあまり多くはないと思います。
傘を打つ雨音を聞きながら、濡れそぼつお寺の参道を歩くのも悪くはありません。

室町時代から信仰を集めるようになったそうですが、七福神メンバーも時代によって変遷してきたようで、現在の固定メンバーに落ち着いたのは江戸時代のようです。「七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かる」と言われるありがたいご利益があり、日本で独自に培われた信仰のようです。

下記に「伊那七福神」のお寺・札所を記載しますので、Googleマップでお調べいただきご訪問ください。たとえ地元の方であっても、数日に分けて参拝されると良いでしょう。と言うのも、田舎のお寺というのは都会のお寺とは違い、不在がちだったり、ご住職が別のお寺へ葬儀の手伝いに出かけてしまう事も多々あります。
「期待していたのに御朱印をもらえなかった」とか、お守りやお土産品等が無くてガッカリされることのありませんように。グッズを買えるのは「光前寺」様くらいです。「伊那七福神」巡りは、そういった観光目的の七福神巡りとは事情が異なりますのでどうぞご了承ください。
また、巡り順などの決まりは無いようですのでご安心ください。

【札所一覧】
1.「恵比寿天」西岸寺/長野県上伊那郡飯島町本郷1724
2.「大黒天」常泉寺/長野県上伊那郡中川村大草5151
3.「毘沙門天」蓮華寺/長野県伊那市高遠町長藤105
   ☆江戸時代の大奥スキャンダル絵島生島事件
4.「弁財天」光前寺/長野県駒ヶ根市赤穂29
   ☆霊犬早太郎伝説で有名
5.「福禄寿」聖徳寺/長野県上伊那郡飯島町田切2875
6.「寿老人」蔵沢寺/長野県駒ヶ根市中沢中割4815
   ☆別名キリシタン寺
7.「布袋尊」常円寺/長野県伊那市山寺3251


写真は6番札所「寿老人」蔵沢寺/駒ヶ根市中沢

 

 

小宮の御柱祭

寅年の今年、7年ぶりに諏訪の「御柱祭」が行われた事は全国の皆様もご存じの事と思います。

ところで、諏訪大社の御柱祭が終わると、いよいよ次は長野県内各地にある諏訪大社の小宮(こみや:諏訪の神様を分祀してもらった各地の神社)でも、御柱祭が行われることはあまり知られていません。
小宮の御柱祭は、「木落し」などの危険な行事は含まれませんが、盛大に里引きと建御柱が行われる神社が多くあります。
諏訪大社以外で最も有名な御柱祭は、伊那谷と諏訪盆地との境に位置する「小野・矢彦神社の御柱祭」です。こちらは諏訪大社の御柱祭(寅年と申年)の翌年に行われることでも知られ、、昔から「人を見たけりゃ諏訪の御柱、綺羅を見たけりゃ小野の御柱」と比喩されるほど、祭衣装の華やかさは昔から有名だったようです。

伊那谷で御柱祭が行われる小宮は、最南端である飯田・下伊那地方までの広範囲に及び、松本・安曇野地方にかけても行われているようです。不思議なのは、関東各地にも諏訪神社は数多く存在しますが、「御柱祭」までを行う神社は皆無なようで、御柱祭を行う境界線は、山梨県の甲府盆地までと思われます。

駒ヶ根市の御柱祭もいくつか行われますのでご紹介いたしましょう。
梨ノ木の諏訪社、東伊那の伊那森神社などが御柱祭が行われることが知られています。
旧村社格と思われる位の高い伊那森神社では、「秋の例大祭」に合わせて7年ごとに御柱祭が行われ、子供も含めた東伊那地区の氏子衆こぞって里引きの後、社殿を囲むように御柱が4本建てられます。
変わったところでは、中割のお屋敷入り口にある氏神様のような祠にも丁寧に御柱が4隅に建てられてお祀りされている祭殿もあります。
諏訪氏は武田信玄に滅ぼされてしまいましたが、諏訪氏から派生した一族は諏訪から南下した飯田市周辺に多く及ぶことも、御柱祭が南信州で受け継がれている理由の一つかもしれません。

各地の「小宮の御柱祭」は、コロナ禍ではどういった祭事になるのでしょうか?。とある下伊那の御柱祭では、「飲酒禁止」「里引きは部落の代表4名」という制限を設けられて「盛り上がらん…」と嘆く氏子の声を聞きました。

とは言え、諏訪地方ばかりではなく、飯田・下伊那地方にまで及ぶ伊那谷全域と山あいの集落にまで、諏訪の信仰と御柱祭の祭事が広く受け継がれていることをお伝えできればと思います。

(中割のかわいらしい御柱)

陣馬形山キャンプ場・南アルプス展望台

次男として駒ヶ根に生まれ、高校を卒業すると大学進学を期に上京した叔父がおりました。
陣馬形山へはわざわざ連れてきたわけではなく、ゴールデンウィークに家族じゅうで帰省してきたので、皆で「タラの芽」を採りながら山頂付近へと辿り着いたのでした。この脇道を入れば頂上尾根の「キャンプ場」という入口の少し先に展望スペースがあります。

Googleマップには「南アルプス展望台」などと書かれてはいますが、別段そんな立派なものではなく、簡単な丸太のベンチが備え付けてあるだけの場所です。おそらくは眼下に広がる、昭和45年に開拓された公共牧場の家畜小屋か、看舎の跡地なのでしょう。
それでもここから見渡す南アルプス山脈の眺望は素晴らしく、切り立つ3,000m級の峰々もさることながら、幾重にも連なる手前の深山も見事な光景で、しばし言葉を失います。さらには人々が暮らす伊那谷とは尾根を挟んだ反対側の為、騒音は一切なく、山間を渡る風の音しか耳に入るものはありません。

丸太のベンチに腰掛け、その景色にいたく感動する叔父は大きな息を吐きました。長い間勤め上げた都内の会社をその春に定年退職したばかりだった為、まるで山を通る風が自分の心の中をも吹き抜けたかのような感覚だったのでしょう。
18歳で故郷を離れて以来50年近く、生家の近くにはこんな景色が広がっていたことさえ知らなかったことを、少し後悔しているような背中にも見えました。
ほどなく叔父には癌が見つかり、憧れた定年後の田舎暮らしを謳歌することなく、瞬く間に逝ってしまったのです。

「天空のキャンプ場」の愛称で知られる陣馬形山キャンプ場は、年間1万人のキャンパーが訪れる有名キャンプ場です。そんな賑わいが間もなく始まる、雪解けしたばかりの静かな季節にこの展望場所を訪れると、あの時の叔父の気持ちに寄り添える気がします。
ひとりでも多く、皆様の田舎暮らしの夢が叶えられます様に。


陣馬形山キャンプ場・南アルプス展望台より望む秋の仙丈ヶ岳・鋸岳

神ともにいまして

3月は別れの季節です。
駒ヶ根も一通りのお別れが過ぎました。市内の小・中学校の卒業式は3月16~17日に、赤穂高校は3月3日に卒業式が行われています。
15歳で駒ヶ根を離れる少年少女。18歳で県外へと旅立つ若者は、そろそろ新天地で暮らし始める頃でしょう。
旅立つ息子・娘、勤務地へ赴く夫や兄弟・恋人。
孤独に涙する日でも、いつかはそんなことさえ忘れる時が来るものです。日本は新しい季節へと歩み始めました。

神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
御翼(みつばさ)の蔭に 絶えず育みませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ   (讃美歌第405番)