神ともにいまして

3月は別れの季節です。
駒ヶ根も一通りのお別れが過ぎました。市内の小・中学校の卒業式は3月16~17日に、赤穂高校は3月3日に卒業式が行われています。
15歳で駒ヶ根を離れる少年少女。18歳で県外へと旅立つ若者は、そろそろ新天地で暮らし始める頃でしょう。
旅立つ息子・娘、勤務地へ赴く夫や兄弟・恋人。
孤独に涙する日でも、いつかはそんなことさえ忘れる時が来るものです。日本は新しい季節へと歩み始めました。

神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
御翼(みつばさ)の蔭に 絶えず育みませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ   (讃美歌第405番)

延期していた成人式

2022年もあるぷす不動産をご愛顧のほど、宜しくお願い申し上げます。

元旦翌日の1月2日、駒ヶ根市では成人式が行なわれました。
1月2日?そう、おかしいですよね。成人の日は「1月10日」で、全国ではこの日に式典を行います。
ところが、駒ヶ根市の場合は例年「お盆の8月15日」が成人式と決まっています。「街を離れている新成人でも、お盆の帰省に合わせた成人式ならば、共に過ごした同級生と出席できるだろう」そんな親心なのです。
ところが令和3年はコロナ禍で、お盆の定期開催を延期せざるを得ませんでした。「1月2日」が成人式だった理由は、昨年の新成人のための「延期していた成人式」だったのです。

思えば、令和2年度の新成人たちには「成人式」そのものが中止されてしまう辛い年でした。昨年も延期を決定した挙句、ようやく再開できた成人式です。本来は文化会館も休館で、開催を支えたスタッフも貴重な年始の休日を犠牲にしたはずです。どうか、そういった周囲の想いを受け止めて、広い視野を持てる大人に育ってください。

今年に入ってからは、オミクロン株とやらが騒がれています。早々に飲食店への客足は途絶え、観光業界にはキャンセルの連絡が急増していると聞きます。
しかし、もうこれ以上若者からあれやこれらを取り上げることは止めにできないでしょうか。データからは、持病を持たない健康な若者は回復できることがわかっています。

今日も高校生が肩を組んで登校していきます。
友達と肩を組んで歩くなんて、私たちにとっては何十年前の出来事でしょう?
彼らにとっては無意識の動作でも、友情を育む貴重な時間であり、人間が持つ親愛の情がまさに開花している瞬間です。
小池東京都知事にとっては「密」でしょう。けれども「離れて歩け」などとは言えない美しい光景です。正しく育った彼らにも、数年後の成人式は必ず提供してあげたいものです。


当社から望む中央アルプス

長野県の選手は12名 箱根駅伝2022

駅伝好きの長野県民は、お正月の風物詩・箱根駅伝を最も楽しみにしている県民とも言えるでしょう。

皆様は箱根駅伝の応援に出かけたことはありますか?
びっくりするほどに体脂肪が無く、マッチ棒のような細い選手たちには驚かされます。ところがこれが早い。10Kmを30分もかからず走り終えてしまう彼らの速さはママチャリ以上です。
必死で走る彼らは自分の為ではなく、ただひたすらにチームの為に苦しさを耐えて駆け抜けていきます。1秒でも早く「襷(たすき)」を届けたいとの一途な想いだけが、痛む脚や痛む肺の悲鳴を克服するのです。

いよいよ、沿道で応援するあなたの所へ、さあ!長野県の佐久長聖高校出身の選手が走ってきたとしたら…皆様はどうなるかを想像してみてください。
きっとどなたも、グッと喉の付け根が急に締め付けられるような感覚と共に、ご自身の意思とは関係なく涙が溢れ出していることでしょう。嗚咽交じりのその掛け声も周囲の声援にかき消され、懸命に走り去った姿にただただ感動してしまう…「箱根駅伝」とはそういう舞台なのです。彼が自分の町の子で、中学生の頃から「長野県縦断駅伝」にも選ばれていたほどの良く知る選手だったとしたら、あなたは応援する沿道でどうなってしまうでしょうか?

2022年1月2日~3日の箱根駅伝は第98回を迎えます。
今年も12名もの長野県の選手が、出場校の中にエントリーされています。今年も沿道での応援はNGだそうですが、テレビの画面越しに精一杯の応援を届けましょう。その想いはきっと伝わります。

長野県・出場予定選手(★伊藤大志君は駒ヶ根市出身)
【駒澤大学】鈴木芽吹(2年・佐久長聖)
【創価大学】濱野将基(3年・佐久長聖)
【青山学院大学】髙橋勇輝(4年・長野日大)
【東海大学】本間敬大(4年主将・佐久長聖)、松崎咲人(3年・佐久長聖)
、越陽汰(1年・佐久長聖)
【早稲田大学】中谷雄飛(4年・佐久長聖)、★伊藤大志(1年・佐久長聖)
【神奈川大学】宇津野篤(2年・佐久長聖)
【専修大学】木村暁仁(2年・佐久長聖)
【国士舘大学】清水拓斗(4年・長野日大)、長谷川潤(4年・上田西)

東京箱根間往復大学駅伝競走公その思い

年取り魚「飛騨鰤」

京都で食べられ始めた高級魚の寒鰤。京文化の導入に余念がない「飛騨高山」の豪商たちも、寒鰤を富山湾から輸入していました。一方では、北陸と江戸を結ぶ近道となる「野麦街道」が整備されます。富山発の塩漬け鰤「越中鰤」が飛騨高山へ着いた後、何とそこからは「飛騨鰤」とブランド名を変えて、野麦街道を信州へと向かう商いが生まれます。こうして信州(中南信地方)の「年取り魚」が鰤となっていった歴史背景があります。富山からの飛騨街道、松本までの野麦街道は共に「鰤街道」とも呼ばれています。

さて私たちの暮らす伊那谷へは、どういった経路で飛騨鰤はやって来たのでしょうか?
飛騨を出発した鰤が野麦峠を越え、奈川まで来てからは木曽へと方角を変え、「境峠」を越えて木祖藪原へと向かいます。木曽谷からはさらに「権兵衛峠」を越えて伊那谷へと飛騨鰤はやって来ました。
飯田行きの鰤は、木曽谷を南下した後に妻籠宿を過ぎてから「大平峠」を越えて飯田へと辿り着きました。
富山発の鰤が飛騨高山経由で伊那谷へ届くまでには、約半月の道のりだったと言います。しかし米1俵分(60Kg)とも2俵分とも言われた飛騨鰤1本の値段ですから、高級魚であった「飛騨鰤」が年取りの膳に上った家は、裕福な家だけに限られたと言われています。

伊那谷のどの家でも年取りに鰤が食べられるようになったのは、ずーっと後の昭和に入ってからの事でしょう。その頃にはすでに飛騨鰤ではなく、鉄道によって富山湾から直接運ばれた鰤だったはずです。すでに1902年(明治35)には国鉄が日本海まで繋がっていました。牛一頭で運べる鰤は最大15本程度とあっては鉄道輸送に敵うはずもなく、「牛」や「歩荷」に頼る鰤の輸送は昭和10年台に終焉を迎えます。江戸時代後期1760年頃~昭和初期1936年頃までの200年近く続いた文化歴史でした。

昭和10年頃とは、日本の生糸(シルク)の生産量が増し、伊那谷の農家にも「蚕」による現金収入が入り始めた時代です。この頃からようやく、各家庭で年取り魚としての鰤が食べられ始めたのではないかと考えられます。実際にはさらにもっと後だったかもしれません。興味深いことに飛騨高山でさえも「どの家でも年取りに鰤を食べられるようになったのは昭和40年頃だ」という証言もある程ですから、伊那谷での真相も定かではありません。
伊那谷で歴史的な「鰤街道の飛騨鰤」を食べたことがある方は、現在85歳以上で、さらにその中でもごく限られた方にとどまることだけは歴史上間違いないと思われます。

どうか安全な登山を。いってらっしゃい!

登山シーズンの長野県、山の事故も多く発生しています。
さっきまでピンピンしていた人が、いとも簡単に死ぬ…それが山の怖さです。でも防げる事故も圧倒的に多いハズ。運命を分けてしまうその「一瞬」に出会わないように安全な登山をしていただきたいと思います。

北・中央・南の3つのアルプスと八ヶ岳、そして御岳山・浅間山を有する長野県。今年の1月1日~9月27日までに、長野県内の山岳事故による死者・行方不明者は合わせて37名にも上ります。ほぼ1週間に1名の割合で誰かが亡くなるか行方不明。遭難事故はどこかでほぼ毎日発生しているのが長野県の実情です。
毎日のように県警山岳救助隊は出動をし、休む日もなく救助ヘリは飛び立ち、医療に尽くす人も多く関係します。更には善意の手助けを行う山岳協会や見知らぬ登山者、山小屋の人。登山はそうした人間の支え合いで成り立っています。

さて、山岳事故の約半数(48%)が転倒や滑落によるとのデータがあります。事故に遭われた方でも、実は「登山には慣れた人だった」というケースが大変多いのではないかと考えていますが、いかがでしょう?
行動のスケジュール管理も、ルートの状況も、天気予報も十分に心得ているにもかかわらず、じゃあなぜ事故は起こるのか?
私ごとですが、先日の雨上がりに歩道のマンホールで滑って転んでしまいました。「恥ずかしかったけど、ケガしなくて良かった」というだけの食卓の話題が、ではこれが山だったとしたらどうでしょう?取り返しのつかない事態に直結していて、二度と同じ食卓には付けなくなっていたかもしれません。山での事故は、こうした些細な「一瞬」が生死を分けているだけではないでしょうか。

山には慣れているとは言え、早朝から荷物を背負って足元の悪い場所を行くわけです。どんな人でもバランスを崩すことはあるでしょうし、注意力が散漫になる時間帯もあります。山に行きたいばっかりに仕事を無理してきたとすれば疲労が溜っているかもしれません。標高2,000mを超えると気圧も下がり体調にも変化が現れます。
そうした中で突然、ガスが周囲を覆い視覚や方向感覚を失う、急に寒くなる、浮石を踏む、濡れた岩で靴を滑らす、思いがけずつまずく…。
その時の「一瞬」…は突然です。
登山ルートは多くの人の手によって、可能な限り安全が保たれるように努力されています。しかし登山経験を持つ人であろうとなかろうと、わずかな一瞬はいつ、誰に容赦なく訪れるか知れません。
登山の最終目的地はご自宅です。どうか安全に。いってらっしゃい!
                                画像場所/中央アルプス千畳敷カール

「ライチョウ復活作戦」その後

「北アルプスから中央アルプスに、冒険心溢れる雌ライチョウがやってきた!」これは以前の当ブログで紹介しました。
このライチョウの行動は環境省を動かし、中央アルプスで絶滅した「ライチョウの復活作戦」が始まったと記事を結んでいます。

さあ、その後はどうなったのでしょうか?
2019年からの繁殖作戦は確実に成果を上げており、既に中央アルプスでは数家族が生息しています。本年8月4日にはさらにその中から選抜された2家族が、2つの動物園にそれぞれ保護されたとの報道もありました。
一家族(4羽)は長野市の茶臼山動物園へ、もう一家族(6羽)は栃木県那須町の那須どうぶつ王国へとそれぞれ保護されたのです。
この目的は、動物園で雌を交換しながら更に繁殖させ、数羽を来年中に野生復帰させるという作戦の一環です。動物園への移送はヘリコプターといったVIP待遇を受け、流石に環境省の直轄事業といったところ。手厚くしてもらっています。
このニュースは那須動物園がある栃木県でも取り上げられており、佐藤園長のコメントからもピリッとした緊張感が伝わってきます。ー「同園の飼育員と獣医師計6人が24時間体制で飼育する。これからが正念場…動物園として培ってきたものを野生動物の保全につなげていきたい」―

さかのぼること2020年7月には、中央アルプスには10家族までの繁殖が確認されていました。そのうちの5家族をケージの中で保護してきましたが、更にその中から、今回の2家族が動物園行きに選ばれたというわけです。
動物園には行かなかった家族3組は既に放鳥されていますので、現在の中央アルプスでの生息数は不確定のためか公表されてはいませんが、8家族・40数羽程度がひっそりと暮らしているのではないでしょうか。山での自然繁殖に加えて、今回の動物園の繁殖組も加えた生息数の最終目標は80羽程度だそうで、これが作戦の全容です。

厳しい環境下に生きる野生のライチョウは、営巣がままならないままに6~8個を産卵してしまい、その中から孵化出来る割合は4~5個。雛になっても生存率は30%程度らしいですから、結局1羽しか生き残れないのです。平均寿命も4年程度であれば、やはり「絶滅危惧種」であり続けることに変わりはないでしょう。
どうか2度までも、中央アルプス一帯からライチョウが滅びてしまうことが起こりませんように…祈るばかりです。

環境省信越自然環境事務所
http://chubu.env.go.jp/shinetsu/index.html

鮎の友釣り

オリンピック、感動の連続でしたね!スポーツの力は偉大です。
さて伊那谷の風物詩、天竜川の「鮎の友釣り」が最盛期を迎えます。

昔から「友釣り」は大人に許された釣りと言えるでしょう。最大の理由は、「おとり鮎」を買わなければ釣りがスタートしないところにあります。買った「おとり鮎」に針をぶら下げて泳がせ、「コラ!俺の縄張りから出て行け!」と体当たりしてきた野鮎が針に引っ掛かったところを釣り上げる手法だからです。

「おとり鮎」の現状価格は一匹600円ほどで、通常2~3匹を購入しますが、今では上伊那郡内の「おとり店」は3店(辰野町・伊那市・中川村)しかないようです。昔は井戸が多かったせいでしょうか、[おとり鮎]と書かれた看板を数多く見かけた気がします。とは言っても、当時の子供にとっては、最初からお金がかかる釣りなどは出来るはずがありません。

そんな夏の土曜日、一人の同級生が「学校が終わった午後、一人で鮎の友釣りに行く」と言います。常に先を行く子供でしたが、まさかの大人宣言に一同は怯みます。「親アユ(オトリ鮎)はどうするのよ!」負けじと一人が食って掛りましたが、予想だにしないプランが返ってきたのです。
「テンカラ(毛針釣り)で、まずアカウオ(ウグイの伊那谷呼称)を釣ってから、それをオトリに使う」。
「ォ、オゥー…。」ダイナミックな発想に一同は驚きますが、子供たちの小さな脳内には大きな疑念がかけ巡っています。「…そんなの、ダメに決まっとるじゃねーかー!」気に食わないとばかりに言葉をぶつける者でも、ダメな理由を説明できるほどの知識はありませんでした。

さて、ウグイで鮎は釣れるのか? ウグイは「おとり鮎」の代替にはならないのです。食性が違う、生きる環境が違う、性格も異なるウグイを、鮎の縄張りへとコントロールするのは無理だと言われます。
子供らしい発想でしたが、思うままにチャレンジしてみた事が彼にとっては有意義でした。
当然ながら釣果の知らせは無く、子供なりの気遣いだったのか、周囲の誰かが尋ねることもないままに、その夏は昭和の伊那谷へと消えていきました。

鮎釣りの詳細は…【上伊那郡・天竜川漁業協同組合】
http://www1.inacatv.ne.jp/~tenryugawa-gyokyo/index.html

中古のキャンピングカー

夜が明けない早朝に、飯島町の「道の駅」を通過する時期がありました。いつからか週末になると、ある県外ナンバーの普通車が夜を明かしています。「車中泊」というやつでしょう。次の週末も、そしてまた次の週末も来ています。

キャンピングカーならばともかく、それが普通車ならば、本人は「車中泊」のつもりでも、地域住民にとっては単に「不審車」です。気味悪く感じるものですから、実は多くの人が監視していたと思います。
全国の「道の駅」で、「車中泊・お断り!」を掲げている理由は、この様に近隣住民への配慮も含まれていることを理解するべきでしょう。

車中泊があたかも「趣味」であるかの様に扱われる昨今にも、皆様はどうお考えでしょうか?
車中泊といった行為は災害時や、金銭的事情からやむを得ず行う行為であり、そして警察官からは「職務質問」を受けてしまう行為だと思うのですがどうでしょう?
「道の駅」はキャンプ場でもないのに、車内で「煮炊きや飲食」をしてそのまま「就寝」、「トイレは道の駅を使い放題」にして「一晩中そこにいる」行為が許されるとは思えません。
住民に嫌われながら一夜を過ごすよりも、駒ヶ根市内や周辺市町村のホテルや旅館を是非ご利用いただきたいと、切にお願いします。

さて前出の方はというと、この方は程なく古~いキャンピングカーを購入して変わらずに訪れるようになりました。たとえ古くても、本格キャンピングカーの威力は絶大で、「怪しい車中泊の人」から一転、「キャンピングカーで旅する人」に大変身してしまいます。
「不用心な田舎の家を狙った、プロの空き巣犯ではないのか?」などと疑ったりもしましたが、逆にウェルカムな気持ちが大きく芽生えます。
古くても本格的なキャンピングカーは高価ですし、コンビニへ行くのにも、あのキャンピングカー一台しか持っていないとしたら相当な覚悟です。そこまでして、毎週伊那谷に来たいという熱意を感じました。
疑いが一転すると、私のお得意な妄想パワーもフル回転をし始めます。
「カメラマンで、伊那谷の自然を撮影して歩いているのではないか?」「中央アルプスに魅了された登山愛好家か?」…。

キャンピングカーであってもオートキャンプ場等での停泊が正式なマナーですから、道の駅はやはり褒められるものではありません。ただ、あのキャンピングカーの方からは、何故か多くの方が、やがて取るであろう次の行動を予感したはずです。
あれから4年。もしかしたら、もう既に伊那谷のどこかで暮らしているかもしれません。

仮説!早太郎伝説

駒ヶ根市・光前寺に伝わる「霊犬・早太郎伝説」。表向きは「化け物退治」の伝承話ですが、これが実は「殺してはならぬ人物の暗殺事件簿」だったとしたらいかがですか?
当ブログでは仮説を立てることで、早太郎伝説を2時間ドラマ風に再現してみました。【あくまでもフィクション】なので、伝説を大切にする少年少女の夢を壊すつもりはありません。関係各位へも、誤解が及びませんようにお願いします。
梅雨の季節「こんな解釈もあるかもね…。」と鎌倉時代に思いを寄せていただければ幸いです。

まずはじめに。日本の伝承話に登場する「狒々(ひひ)」とは妖怪であり実在しません。実在する大型の猿「ヒヒ(英名:Baboonバブーン)」と同一視されている方が非常に多いのは大きな誤りです。バブーンにわざわざ和名を付ける際、妖怪の狒々にちなんで【ヒヒ】などと付けてしまったせいで起こっている混乱と過ちです。
猿のヒヒ(Baboon)は日本列島はおろか、中国大陸にさえも昔から生息せず、民俗学者・柳田國男も「狒々が大型の猿などではないことは明白である」「とにかく存在したであろう狒々の正体とは一体何なのか?」と述べています。

さて興味深いことに、早太郎伝説に似た伝承話が東北~九州までいくつか残されています。そしてこれらの伝説は共通するストーリで構成されているのです。
①なぜ似た話が点在? ②なぜ、旅の僧侶や定住しない山伏が村人を救う? ③なぜ、化け物退治に犬なのか?しかもわざわざ遠方から連れてくる ④退治した化け物の正体が実在しない妖怪「狒々」というオチはなぜなのか?

謎を解く伝承話が山形県に残されています。
早太郎伝説よりもさらに700年ほど古い時代の伝説によると…「都から送られてきた役人」が年貢の代わりに娘を差し出せと里の人々に強要します。旅の座頭がやってきて、「それは役人などではなく妖怪である」ことを見抜くと、甲斐の国(山梨県)から犬を連れてきます。犬が妖怪を嚙み殺した後にわかったのは、「都の役人」に化けていたのは「狸」だっという話です。
もうお気付きでしょう。登場人物を裏返して読み解くと、「早太郎伝説」は急にリアリティを増してきます。
そうです、仮説の答えは「狒々」=「都(幕府)の役人」=「退治できない権力者」です。

●仮説に基づいた、2時間ドラマ風「早太郎伝説」は以下になります。

 静岡県磐田市にあった「見付の村」には、「人身御供」の風習を悪用した犯罪行為に苦しんでいました。神の名を騙り「収穫を終えた祭の日には、若い娘を差し出せ」と村に強要する相手は「都からやってきた役人」なのです。断ればひどい年貢の取り立てやあらぬ罰を着せられ、村全体が疲弊することは明らかです。仕方なく差し出す娘の家を決定するに当たっては、神社の氏子総代や村の総代などの総意によって決定し、夜中のうちにその家へ白羽の矢を射っておくのです。

「もうこれ以上は我慢できない!」積年の恨みに溜まりかねた村の人々は、都の役人を殺してしまおうと決意します。しかし、村人が都の役人を殺したとなれば、村の多くの者が処刑されるでしょう。相談を受けた知恵のある「僧侶」は一案を持っていました。かつて同様にどこかの村で、悪行を行う役人に実行した暗殺手段があったことを知っていたからです。

僧侶はまず、存在しない「旅の僧侶」が来たことにしておき、一連の計画実行は旅の僧侶の仕業にします。次に僧侶は、遠く離れた信州の光前寺に出向き依頼をするのです、「早太郎なる者をお貸しくだされ」。
そうです、「早太郎」は犬などではありません。普段から寺に仕えて雑用などをしてはいますが、勢力を誇る寺社には剣や長刀の心得のある寺社侍がいたものです。早太郎もそうした一人でした。
しかし事は重要であり完全なる秘密裏に行わなくてはなりません。
光前寺を出発する時から、早太郎は自分はもはや一匹の「犬」である事に承知をし、名も「太郎」と言うだけで見付の村へ出向きます。

いよいよその晩、太郎なる者は役人および同行していたであろう二名ほどの侍を暗殺します。自身も瀕死の傷を負いながらも信州まで戻った早太郎でしたが、刀傷は深く、住職へ報告をするやいなや死んでしまいます。哀れに思った住職は境内に墓を建てますが、それでも最後まで隠し通す必要から早太郎を「霊犬」として祀ります。

舞台となった見付村での真相は、「都の役人暗殺事件」なのですが、村人がお咎めを受けることはありませんでした。
日本各地で似た伝説が複数残されていることを考慮すると、都の役所にも恐らく真相はバレているのですが、送り込んだ行政官の悪事のあまりのひどさに対しては村人を処罰をしなかったのではないかと推測しています。
表面上も村人には罪などなく、殺したのはどこかから来た犬、殺されたのは妖怪狒々。一連を計画実行した旅の僧侶など行方知れず。都は…役人が失踪してしまったので新役人を派遣してこの件は完了。愛すべき鎌倉の世とはこうだったのかもしれません。

見付の村の人々は「太郎」なるスーパーヒーローを「悉平太郎(しっぺいたろう」と呼び、亡くなったことを知ると「霊犬神社」を建立して、最後まであくまでも犬としてお祀りしました。悉平とは「(悉)ことごとく、(平)平和をもたらした」と解釈できます。
光前寺には、見付の人々が早太郎に奉納した大般若経が実在しているそうです。

以上が、当ブログがお届けする2時間ドラマ風【仮説】早太郎伝説です。
新作歌舞伎の演目になりそうなストーリー性が満ちてはきませんか?

南割公園のハッチョウトンボ

夢中でカメラのシャッターを切る私に、背後から訪れた年配のご婦人が声をかけます。「トンボは何処にいるのでしょうか…?」
それもそのはずで、日本のトンボの中で最も小さく、全長が1円玉にスッポリと収まってしまう超小型のハッチョウトンボは、初めて訪れた人にとっては、慣れるまでは目に入らないものなのです。
「ここにいますよ。ほら、いっぱい…。」
どなたも「赤とんぼ」が大きさの基準なものですから、初めて見つけた時には本当に驚きます。

この際、「赤とんぼ」の正式名を調べてみようと思い付きましたが、
「トンボ科」の、「アカネ属」…まではわかりましたが、「アカネ属」にはさらに10何種類にも及ぶトンボがいることを知りました。子供の頃に田んぼの上空を覆っていた赤とんぼ達は、実は10何種類もが混在していたという2重の驚きです。

子供とは随分と残酷な生き物なわけで、赤トンボを捕まえては尻尾をちぎってはみたり、羽をむしってはみたりと、さすがに「閻魔様」もあの世に行くゲートの前では、そのことを一旦指摘してくるだろうなと、今から怯えています。
しかし、ハッチョウトンボにはそんな残酷行為は厳禁。なぜなら、駒ヶ根市の「市の昆虫」に指定されているからです。それほどまでに、全国各地で絶滅危惧種に指定されている大切な生物なのです。

漢字で書くと「八丁蜻蛉」。由来となる八丁とは何ぞや?ですが、「八丁目付近でのみ見られる蜻蛉(トンボ)である」という、昔の偉い学者先生の検分からそう名付けられたものだと伺います。
その八丁目とは、名古屋市のどこかの八丁目らしいのですが、それほどまでに当時から既に貴重な存在だったということでしょう。

南割の地に棲みついた小さなトンボは「ハッチョウトンボを育む会」のメンバーに大切に守られ、市営野球場の建設とともに公園整備された一角に安住の棲み処を与えらえ、2004年7月「駒ヶ根市の昆虫指定」を受けて駒ヶ根市教育委員会の保護下に置かれることとなりました。
8月上旬までの短い期間ですが、精いっぱいに生きる様子をご覧になってみませんか?